愛するか、愛されるか。

東京の賢き女は愛されることを選び、愚かな女は愛を貫くというのは、本当だろうか。

堅実な優しい男と、危険な色香漂う男。

麗しき20代の女にとって、対極にある“二人の男”の間で揺れ動くのは、もはや宿命と言える。

そんな彼女の苦しみが、貴方には分かるだろうか。

主人公の詩織・29歳は、自分を溺愛する年下の男・正男と半同棲中の平和な生活を送っている。しかし、余裕溢れる年上の男・英一郎に強引に口説かれ、徐々に気持ちが傾いていく。




恋人の正男の熱い体温に包まれながら、詩織は心と身体が分裂するような感覚に陥っていた。

深夜に突然不躾な電話を寄こした英一郎の低い声が、鼓膜に残っている。

一日中仕事で酷使した身体は、ひどく疲れているのに、眠りはなかなか訪れなかった。CAとして働く詩織は、不規則な生活のせいで、少々不眠症の気がある。ちょっとした刺激やストレスで、すぐに目が冴えてしまうのだ。

正男はすでに熟睡していて、まるで小さな子供がぬいぐるみを抱きしめるように、遠慮なく詩織にのしかかる。

その重みに耐え、ほとんど身動きが取れないまま、詩織は暗闇の中、英一郎の自信に満ちた口調や、計算高そうな目つきを思い出していた。

―私、どうしてあの人のことばかり考えてるの......

初対面での暴言や、堅物の詩織をからかって面白がるような態度。

あの種の年上の男が、基本的に女に不自由しないであろうことは詩織にも分かる。日常的に若い女にちょっかいを出し、火遊びのような関係を楽しんでいるのだろう。

―あんな人に簡単になびく女なんて、最低だわ......

詩織は正男への罪悪感や自己嫌悪に苛まれながら、長い夜を過ごした。


英一郎の一言で、詩織の警戒心はほぐれてしまう・・・。


聞きたいことは山ほどあるのに。悔しくて、口に出せない


結局詩織は、「今夜、同期の誕生会があるのを忘れていた」というありふれた嘘を正男に告げ、英一郎と出かける選択をしていた。

自分でも、とても信じ難い、説明のつかない行動だった。

英一郎は予告通り、翌日の18時きっかりに詩織の携帯を鳴らした。東銀座にあるマンションの外に出ると、黒塗りの高級車が、ハザードを出して停まっていた。

「それ、カシミヤ?素敵だね、詩織に似合ってるよ」

後部座席に座る英一郎は相変わらず飄々とした様子で、挨拶代わりに詩織のコートを褒める。

どうして電話番号や住所を知っているのか、どうして自分に構うのか。聞きたいことは山ほどあったが、詩織は口に出すのも悔しい気がして、「ありがとうございます」とだけ、短く答えた。


相手が既婚者ならば、かえって気楽。非日常を、開き直って楽しめばいい


英一郎に連れてこられた『Crony』は、実は詩織がずっと気になっていたレストランだった。

『アピシウス』や『カンテサンス』などの名店出身者たちが去年12月にオープンしたばかりの店で、約250種類の豊富なワインの品ぞろえの評判も、噂に聞いていたのだ。




ウッディな北欧インテリアと、温かみのある照明。

店内は想像よりもずっと心地良い雰囲気で、カウンター席に案内されると、詩織の警戒心は自然と緩んだ。それよりも、目の前に広がるオープンキッチンへの好奇心が勝る。

「すっぽかされるんじゃないかと思って、ハラハラしてたよ」

言葉とは裏腹に、英一郎は自信たっぷりな様子で微笑んだ。

「このお店、来てみたかったし......」

慌てて発した詩織の一言は、ひどくチープな、子供染みた言い訳のように響く。英一郎のような女慣れした男の前では気丈に振る舞いたいのに、なかなか上手くいかない。

さらに詩織は、華奢なシャンパングラスに添えられた、男性にしては美しい英一郎の指に結婚指輪を発見し、動揺してしまった。

「英一郎さん、結婚してるんですか?」

責めるような口調になってしまい、詩織はさらに後悔する。

「ああ、してるよ。10年以上もね。君も恋人がいるんだろ?結婚はしないの?」

「たぶん、近々......」

小さく答えると、英一郎は「ふぅん」と、意地悪くニヤリと笑った。この瞬間、二人は共犯者となってしまったような気がした。

しかし詩織は、かえって気が楽になった。相手が既婚者ならば、もう開き直って若い女らしく彼に甘え、正男と訪れるにはハードルが高いだろうこのレストランを、非日常として存分に楽しんでしまえばいいのだ。

別に、それほど悪いことをしているわけではない。ただ、ワインスクール仲間として、ワインを嗜んでいるだけだ。

詩織はそう言い聞かせ、どんどん自分を騙し続けた。


徐々に気持ちが緩んでいく詩織。抗えない、英一郎の大人の魅力。


どうしても比べてしまう。目の前の大人の男と、幼い恋人


開き直ってしまえば、英一郎と過ごす時間は、詩織にとって心地良いものだった。

年下の正男に対しては、詩織はいつも何となく「自分がしっかりしなくては」という姉のような責任感や使命感に駆られ、必要以上に大人ぶるような節がある。

もちろん、子犬のように自分に懐き、甘え上手の正男に母性本能をくすぐられることも多い。そんな彼だからこそ、神経質な詩織も心を開き、良い関係を築けたのだと思う。

もともと三姉妹の長女として育った詩織と、弟気質の正男は、決して相性が悪いわけでもない。

しかし、自分より一回り以上も年の離れた英一郎に対しては、詩織はそんな緊張感から解放されるのだった。

グラスが空になれば、彼は勝手に料理にピタリと合うワインを慣れた様子でオーダーしてくれたし、シェフに料理の味を打診されれば、堂々と上手く会話をしてくれる。

詩織はただ、英一郎の隣で、ぼんやりとしていれば良いのだ。

仕事のことを聞かれれば、普段は口に出さない愚痴を何も考えずにペラペラと吐露していたし、趣味や好きなことの話になれば、少々値の張るレストランやワインへの興味も、サラリと口にすることができた。

正男に対してだったら、そうは行かない。何事も自分が先導し、何か発言するときは、彼の価値観や基準に合っているか、プライドを損ねたりしてしまわないか、一度頭の中で咀嚼してから口に出していた。

詩織には、無意識にそんな癖がついていたのだ。




また英一郎は、初対面のときとは違い、詩織に対して紳士に振る舞った。

かといって会話が堅苦しいわけでもなく、同年代のような気楽さやユーモアも兼ね備えている。しかし会話の節々には、一定以上の男にしか身につかないであろう一流の知識やセンスの良さが光った。

「詩織は、本当にイイ女だね。本気になりそうだよ」

酔いが回ってしまえば、彼の軽口への反発心も不思議と消えていた。年上の男に手綱を委ねる安心感というものを、詩織は初めて知った気がする。

「嫌だったら、言ってね」

英一郎にまたしても手を握られたが、実際嫌ではなく、前回のように抵抗はしない。

しかし、甘い罠に嵌められているような、一歩間違えれば谷底に落ちてしまう綱渡りのような感覚はあった。

「また、会ってくれる?」

こくりと頷きそうになったとき、スマホがけたたましい音を立てて振動した。着信の相手は正男で、詩織は一気に現実へと引き戻された。

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気づけば、どっぷりと英一郎の甘い罠に嵌っていた詩織。想いは募っていく……。