金正男暗殺で動いた、東南アジアに潜伏する工作員たちの日常

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マレーシアだからこそ、北朝鮮は暗殺を敢行できた」

そう語るのは、2016年4月まで5年間、国連安保理の北朝鮮制裁委員専門家パネルとして、捜査の現場に立っていた古川勝久氏である。経済制裁下にある北朝鮮。しかし、工作員は、なぜ自由に海外で活動できるのか。古川氏が緊急寄稿する。

2017年2月19日、マレーシア警察は、金正男暗殺事件に関与した疑いで、4名を逮捕し、7名について捜索中である旨を正式に発表した。今回の事件を通じて、北朝鮮が東南アジア地域に浸透している実態について分析を進めると共に、本事件は日本にとって他人事ではなく、日本の安全保障にも深刻な影響を及ぼしうることを説明したい。

マレーシア警察の発表によると、逮捕された北朝鮮人は、マレーシア在住のリ・ジョン・チョル(47歳)である。彼の所属は、クアラルンプール市内の企業(以下、「T社」と略称)の「IT部門」とされる。

しかし、各種メディアからインタビューを受けたT社の社長の説明によると、リ容疑者には同社での勤務実態がなく、彼の就労許可証の取得を支援するために会社の名義を貸していただけ、とのことである。

「彼はここでは働いていない。必要な時に呼び出すだけだった。この2年間はほとんど会っていない」「給料を払っておらず、ビジネスパートナーでもない…(リ容疑者が)どうやって稼いでいたのかも詳しくわからない」。社長はリ容疑者との実質的な関係を否定している。

仮にこの説明が真実であるとしても、問題なのは、社長が、労働実態もない外国人に対して、就労許可証取得のために会社の名義貸しをすることに、ためらいも非合法性も感じていないように見受けられる点である。全くの虚偽申告をマレーシア当局にしていたことになる。

しかも、この社長は、北朝鮮との緊密な関係についても説明している。 社長が1997年に平壌を訪問した際、リ容疑者の親族と知り合いになり、それ以降、頻繁に北朝鮮を訪問したという。さらに、リ容疑者以外にも、10名の北朝鮮人の就労許可証取得に協力してきたという。

もしこれらの話が事実であれば、この会社は北朝鮮に文字通り食い物にされてきた、ということになる。北朝鮮側からすれば、こんなにおいしい話はない。就労しなくても、海外で就労許可証取得のための支援をしてもらえるからだ。

リ・ジョン・チョル容疑者の逮捕に関するマレーシア警察の発表

(出典:Royal Malaysia Police, ”PDRM BURU EMPAT LAGI SUSPEK KES PEMBUNUHAN WARGA KOREA UTARA”, 19 February 2017)

「便利屋」として現地企業に潜る北朝鮮人

以前、私が国連安保理で北朝鮮の国連制裁違反事件を捜査していた際にも、北朝鮮人が、東南アジアの現地企業の社員の肩書きを用いて、北朝鮮との関係を隠蔽しつつ、非合法活動を展開していた事例に度々遭遇した。一見、とても北朝鮮とは関係があるとは思えないような現地の中小企業ばかりであった。

例えば、2014年7月に国連安保理制裁対象となった北朝鮮の海運大手企業にオーシャン・マリタイム・マネジメント社(OMM)がある。OMMの貨物船が世界各地の港に寄航した際、なぜか、遠く離れたタイの首都・バンコク市内のとある中小企業がそれら貨物船の寄港手続きに頻繁に関わっていたことがわかった。捜査を進めると、この会社に勤務する「スティーブン・リー」という人物の名前が何度も浮上した。

後に判明したことだが、この人物は、本名を「リ・ピョン・グ」という北朝鮮人で、OMMの主要人物であった。彼はバンコク市内の中小企業を拠点として、OMMバンコク支局を運営していたのである。バンコクの会社の「スティーブン・リー」と取引をしていた海外の船舶代理店からは、「まさか北朝鮮人だったんですか?」、と驚きの声が漏れ出たものである。

マレーシア国内にもこのように北朝鮮人を雇っている中小企業は少なからず存在する。クアラルンプール在住のある北朝鮮人は、現地の中小企業に社員として紛れ込んでいた。そこで、OMM貨物船のマレーシア寄港の手配を現地で行ったり、北朝鮮から石炭輸入等の業務に携わっていたのである。この企業は対北朝鮮貿易を主業務としており、その社長によると、「北朝鮮人のビジネスマンは、自分が知っているだけでも市内に100名はいる」、とのことであった。

なぜ北朝鮮人を雇うのか?それは、北朝鮮との取引においては度々問題が発生するため、「トラブル・シューター」として雇い入れるケースが多いようだ。例えば、北朝鮮の港への貨物船の入港や貨物の通関の際など、北朝鮮ではとにかく手続きが遅れて頻繁にトラブルが発生するという。そのような事態にならないよう、北朝鮮人エージェントが、北朝鮮側と事前調整にあたるのである。いわば、対北朝鮮貿易の「便利屋」である。

しかし、マレーシア国内の貿易業者の間では、北朝鮮との取引についてはあまり口外しないという暗黙の了解があるようだ。

彼らと話をしていても、最初は、「北を訪問したことがある」、とか「北と取引をしたことがある」、という説明だったのが、よくよく話を詰めてゆくと、実は対北朝鮮貿易をメインとする企業だったことが後で判明したことがある。自社が取り扱う商品が、実は北朝鮮からの輸入品であることを、あまり知られたくなかった、との印象である。

意外に思われるかもしれないが、日本の主な貿易相手国である東南アジア諸国には、こんな企業が存在しているのである。

T社と日本との間接的な接点

公開情報によると、T社は、抗がん作用があるとされる漢方薬の販売を主業務としている。この漢方薬は、もともと香港登記企業(CJ社)が世界各地で販売促進している商品である。T社は、CJ社のマレーシア国内の総代理店とされている。

公開情報によると、CJ社は、これまで販売代理店や卸売業者を世界各地に有していたようであり、この中には、マレーシア以外にも、日本、台湾、インドネシア、タイ、シンガポール、フィリピン、ベトナム、オーストラリア、米国、英国、トルコ、ロシア、スペイン、ルーマニア、オーストリア、メキシコ、ペルー、ポーランドといった国々があげられている。日本国内では、CJ社の漢方薬の販売・宣伝のパートナーとして、複数の医療関係団体が同社のウェブに紹介されている。

CJ社の1991年の設立当初の香港登記資料によると、当初の同社の株主とディレクターは2名の台湾人で、彼らは東京都中野区の住所を登記に用いていた。以降、CJ社の株主とディレクターは、複数の他の香港居住者または台湾人が引き継いできた。

つまり、香港のCJ社は、設立当初から、日本国内の団体や個人とビジネス関係を継続してきた模様である。そして、今や同社は、東南アジアや台湾を中心に、複数の国々に販売網を有している。

この構図を、リ容疑者の視点から見てみよう。彼が所属するマレーシアのT社は、日本などの国々とは直接的なビジネス関係を有していないかもしれないが、香港のCJ社を通じて、これらの国々と間接的につながっている。つまるところ、リ容疑者が、北朝鮮による非合法活動や秘匿工作を目的として、CJ社のネットワークを何らかのかたちで利用していた可能性は少なくとも想定されうる。T社の社長の言葉を信じるならば、このような北朝鮮人が10名はいたことになる。

例えば、これはあくまでも全くの仮定の話であるが、CJ社のネットワークを用いれば、リ容疑者や他の北朝鮮人が北朝鮮産品をマレーシア経由で日本へ迂回輸出したり、あるいは日本から製品を輸入して、それを台湾や東南アジア経由で北朝鮮に迂回輸出したとしても、それを途中で阻止することは相対的に難しくなる。

日本側にとってみれば、T社と北朝鮮人との関係が見えない状況では、北朝鮮による非合法活動に知らず知らずのうちに巻き込まれかねないため、リスキーな状況といえよう。

現地報道によれば、マレーシア警察は、リ容疑者と北朝鮮の工作機関との関連を調べているとされる。韓国政府も、リ容疑者を含む一連の北朝鮮人の容疑者たちは、北朝鮮の偵察総局など、情報機関の要員と考えているようだ。

偵察総局とは、北朝鮮の主要なインテリジェンス機関として、2016年3月に国連制裁対象に指定された組織であり、その任務は多岐にわたる。北朝鮮の主な武器密輸業者である「青松連合」を指揮下に置き、武器密輸を展開している(青松連合も国連制裁対象組織である)。さらに、世界各地で、秘匿に情報収集活動を展開したり、マネ-ロンダリング目的でフロント企業を設立し、北朝鮮のために影の金融ネットワークの構築を図るなど、様々な非合法活動に従事してきた。

北朝鮮の工作員は、国際機関や現地企業に雇われる形で、海外に拠点を築く。その際、家族ぐるみでチームを組むことがある。非合法活動に従事するに当たり、やはり家族が最も信頼のおけるパートナーなのだろうか。リーダーである最年長の男性工作員が英語を話せないため、妻や娘が通訳として彼を幇助していたケースが見受けられた。

例えば、2014年には、フランス政府が、偵察総局の北朝鮮工作員3名に対して単独制裁を課し、同国内にあった3名の資産を凍結する、という事件が発生した。この3名は、父親、娘、息子から構成される工作員チームで、父親はパリの国連児童基金(ユニセフ)の本部に約20年間勤務し、息子はイタリアの世界食糧機構本部に勤務していた。

彼らは、欧州域内で北朝鮮のための秘匿金融ネットワークを構築するべく、欧州各地でフロント企業を立ち上げ、現地協力者の確保や、欧州に派遣されてくる偵察総局要員へのロジ支援等の任務を任されていた。国連捜査の課程で、我々は3名の足取りを追跡したが、ほとんど捕捉できなかった。

唯一、娘が最後にロシアに渡航したところまでは追跡できたのだが、その先の足取りは不明だった。信頼できる筋によれば、偵察総局の海外工作拠点はロシアとされるが、確証はとれなかった。

偵察総局は、マレーシアを含む東南アジア地域にもフロント企業を運営し、要員を配置してきたと考えられている。その中には、クアラルンプール市内にあった、軍事通信機材・システムの販売会社が含まれる。 この会社は、近隣国にも姉妹企業を有していた。そこに所属していた北朝鮮人3名が、2014年2月にマレーシア空港で、多額の米ドルやユーロ通貨を無申告で持ち出そうとしたため、一時拘留された事件も発生している。

筆者は、クアラルンプール市内のこのフロント企業の連絡先住所を尋ねたことがある。実に不気味なビルであった(メイン写真)。オンボロのビルで、2階に上がると鉄格子に守られたスペースがあり、鉄格子の向こう側にある部屋からは、スピーカーからひっきりなしに現地語のアナウンスが流れていた。何をしているオフィスなのか、全く検討もつかない。

さらに階段を昇り、3階に到着した。ここにフロント企業の連絡先とされる部屋があったのだが、部屋の入り口には看板も何もなく、人気は感じられない。もはや空室なのか、それとも入り口の向こう側に誰かいるのか、判断がつかなかった(以下写真:古川勝久撮影)。



ドアベルを押すべきか否か、しばらく逡巡したが、結局、断念した。万が一、拉致された場合、自分がここにいることを知っている人間は誰もおらず、リスクが高すぎた。帰り際に郵便受けをチェックしたところ、複数の異なる個人宛の郵便物が山積みになっており、これらがこのフロント企業のものだったのかどうか、不明である。全く不気味としかいいようがない建物であった。

このフロント企業については、国連捜査の過程でマレーシア政府に何度も捜査協力を要請したが、ついに政府からの協力は得られず、全容を解明できずじまいであった。

もっと捜査を進められていたら、マレーシア国内に潜む偵察総局の要員を少なくとも何名か摘発できていたのではないか。そうであれば、仮に今回の暗殺事件を止められなかったにせよ、もう少し北朝鮮工作員を牽制することぐらいはできていたのではないか。今から思うと悔やまれるばかりである。私からすれば、今回の事件はマレーシア政府の自業自得だろう。

昨年、このフロント企業の平壌本社が、アフリカ向けに軍事用通信機器を密輸していたところ、輸送途中で摘発されている。偵察総局のフロント企業は、依然、健在だ。

北朝鮮大使館は非合法活動の現地本部

マレーシア警察の発表によると、在マレーシア北朝鮮大使館の二等書記官・ヒョン・クワン・ソン(44歳)も金正男氏暗殺事件への関与が疑われている。

そもそも、北朝鮮は、武器密輸やマネーロンダリング等の非合法活動を、現地の北朝鮮大使館、領事館、貿易代表部を通じて行うことも多い。中でも、大使館勤務の外交官はウィーン条約で不逮捕特権を享受しているため、現地警察に拘束されるリスクがない。大使館が非合法活動の現地本部となっている場合も数多い。

例えば、北朝鮮の主要な武器密輸企業の一つである青松連合(国連制裁対象)は、アンゴラの北朝鮮大使館を拠点として、軍関連の非合法取引を行っていた。また、2013年、エジプト向けにスカッドミサイルの部品を密輸していた北朝鮮の貿易会社は、在北京北朝鮮大使館を荷送り人住所として使用していた。

ミャンマー、エジプトの北朝鮮大使は、武器密輸を幇助したため国連制裁対象者に指定されているし、北朝鮮の最大手の武器密輸団体・朝鮮鉱業開発貿易会社(国連制裁対象)は、代表者を中東・アフリカ諸国等の大使館に派遣し、ヒョン容疑者のように二等書記官などの目立たないポストに着任させてきた。これら大使館のメンバーが、現地企業に雇用された他の北朝鮮人工作員とともに非合法活動を展開することも多い。

このように大使館等を通じて北朝鮮が制裁を回避してきた現実を踏まえて、2016年11月に採択された国連安保理決議では、安保理は加盟国に対して、北朝鮮大使館や領事館の現地スタッフの人数を減らすことを要求し、マネロン対策として、北朝鮮外交官や領事館員による銀行口座数の削減を義務付けている。

そもそも、外交官による商業活動等、全ての利益活動がウィーン条約で禁止されている。北朝鮮はこれに堂々と違反してきたわけである。

残念ながら、ヒョン容疑者は外交官の不逮捕特権に守られているため、マレーシア警察が彼を取り調べるのは、北朝鮮大使館の反発を考えれば、現実的には不可能であろう。

マレーシア警察が捜査すべきこと

リ容疑者は、マレーシア企業の「衣」を装いつつ、果たしてどのような非合法取引を展開していたのか。一般的に、リ容疑者のような北朝鮮の海外駐在要員は、現地での情報収集や現地協力者のリクルーティング活動の任務を担い、また、当地に派遣されてくる北朝鮮工作員に対するロジ支援などを行う。リ容疑者はこの役目を負って、他の4名の北朝鮮工作員へ後方支援を行っていた可能性が考えられうる。

もしリ容疑者による今回の金正男暗殺事件への関与が確定すれば、または彼と北朝鮮情報機関との関係がある程度まで立証された場合には、彼が東南アジアや台湾などで協力者ネットワークを構築したり、日本や台湾、東南アジア諸国等を北の非合法貨物の調達または経由地点としていた可能性なども視野に入れて、幅広い観点から彼のこれまでの活動を検証する必要がある。

T社が就労許可証の取得を支援した10名の北朝鮮人についても、徹底した捜査が必要となろう。もしかしたらその中に情報機関工作員が潜んでいる可能性も想定すべきだ。

東南アジアの問題点

今回のように、何か事件が起こるまで、北朝鮮人がどこの企業に潜んでいるのか、わからないケースが多い。東南アジアの各国で、はたして何名の北朝鮮人がどの企業に所属しているのか、現状を把握する必要がある。その上で、適切な形式でそのような情報を国際的に共有する仕組みが不可欠であろう。

また、今回の事件を通じて、殺害された金正男が、これまで偽名の旅券で海外渡航を繰り返していた実態が浮き彫りとなった。本来、旅券の虚偽記載は、深刻な大問題である。しかし、北朝鮮では、虚偽情報の旅券記載が一般化しているようだ。これでは、北朝鮮人容疑者の渡航を関係国が監視することは困難なはずだ。

捜査対象の北朝鮮人については、生年月日や旅券番号だけでなく、できるだけ顔写真、指紋などの生体認証情報も収集して、関係国がインターポールなどを通じて国際的に共有することが必須である。

東南アジア地域では、近年、ASEAN経済共同体として、域内のヒト・モノの移動の自由化が推進されている。しかし、これは、この地域に潜む多数の北朝鮮人にとってもヒト・モノの移動がより容易になってしまうことを意味する。ASEANに対しては、実効性のある出入国管理や輸出入管理体制の構築を目指すよう、働きかけなければならない。そのために必要な技術支援を、私たち日本も提供する必要がある。

東南アジアは、日本人にとって人気の観光旅行先である。他方、北朝鮮にとっても大切な活動拠点なのである。金正男殺害事件は、この現実を私たちに突きつけている。日本がASEANと経済的つながりを強めてゆく上で、これは避けて通れない現実である。