一言一句聞き漏らさず、頭に叩き込もうとする青山に、指揮官は厳しい言葉を投げかけたあと、必ずこう言った。
 
 責任はすべて私が取るから、アオは思い切ってプレーすればいい――。
 
「プロの世界って、責任を負いたくない人もいると思うんですよ。でも、一流の人は自分が責任を取る。自分もこうありたいなって思いました」
 
 2006年シーズンが終わった時、6月までゼロだったリーグ戦出場数は、19に増えていた。
 
 もっとシーズンが続けばいいのに――。
 
 冒険の続きは、翌年に持ち越された。
 
 だが、待っていたのは、思い描いたのとは異なるシーズンだった。

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 2007年12月8日、広島は京都サンガとのJ1・J2入れ替え戦に臨んでいた。J1残留を懸けて戦う仲間の姿を、青山は祈りながら見つめるしかなかった。
 
 青山がいたのはピッチでも、ベンチでもなく、スタンドだった。

「あの年はずっと苦しかった。毎試合、なにやってるんだろうって……。ロッカールームで悔しくて泣いたこともあった」
 
 2月末に行なわれたU-22日本代表の合宿でインフルエンザを患って以来、コンディションの維持に苦労した。
 
 一方、チームも相手から分析され、序盤の好調がウソのように次第に勝てなくなった。この頃はまだ「ミシャスタイル」の完成度は高くなかったのだ。
 
「ずっともがいていたけど、なにもできなかった。まだ影響力のある存在ではなかったし、五輪予選もあったから、いっぱいいっぱいで余裕がなかったんです」
 
 チームが残留争いに巻き込まれた11月、青山はサウジアラビアとの五輪予選で右足の指を骨折してしまい、ひと足先にシーズンを終える。広島のJ2降格が決まるのは、その17日後のことだった。
 
 チームを思う青山の気持ちが溢れ出たのは、契約交渉の場だった。
 
 事務所の応接室に入った青山は、1時間が経っても出て来ない。
 
「チームがなんでダメだったのか、これからどうしていくのか、整理しないと前に進めなかった。試合に出始めたばかりの小僧が強化部長に対して失礼なことを言ったけれど、クラブのことを考えて、自分なりにぶつけたつもりでした」
 
 それは21歳の若者なりの、このクラブと生きていくという覚悟であり、責任の取り方だったのかもしれない。
 北京五輪出場とJ1復帰――。
 
 2008年シーズンはそのふたつを目標に掲げたが、7月14日にひとつが失われた。
 
 反町康治監督の読み上げたメンバーリストに、青山の名前はなかった。
 
 その事実を広島に向かう新幹線の中で知った青山は、実家のある岡山駅で途中下車してホームのベンチに座り、1時間ほど動けなかった。
 
「ショックでしたね、すごく。でも、分かってたんです、オリンピックはダメだろうって。5月のトゥーロン(国際大会)で個の能力をもっと高めないと厳しいって感じたし、そのなかでも本田(圭佑)とかは通用してましたから。だから落選したあとは、意固地になる必要なんかなく、力不足を受け止めて、サンフレッチェで努力していくしかないなって」
 
 広島では、J2の首位を走るチームの中心選手としてピッチに立ち続けていた。
 
 だが、それでも不安に苛まれていた。
 
「試合に出続けているから充実感もあったし、自信も生まれていたんですけど、ミシャの求めるものが高いから、本当に紙一重のところでポジションを保っている状態だった。(柏木)陽介も試合にあまり出られてなかったから、いつ自分がそうなってもおかしくない。危機感は常にありましたね」