分岐点は2006年シーズン。夏以降に出番が急増し、プロ入り以降、一度もピッチに立てなかったリーグ戦で、19試合に出場した。写真:田川秀之

写真拡大 (全4枚)

 誰の人生にも、ターニングポイントと呼べる出来事があるものだ。
 
 もし、あの時、違う道へと進んでいたら、もし、あの人と出会えていなかったら……。その後の人生は今とはまるで違うものになっていたに違いない。
 
 青山敏弘にもキャリアにおける分岐点がある。
 
 2006年の夏、オーストリアからやって来たばかりの、情熱をほとばしらせる指揮官によって、青山はスポットライトの当たる表舞台へと引き上げられた。
 
「誰からも見向きもされなかった僕を、ミシャが見つけてくれたんです。プロとして初めて認められたんだって思うと、とにかく嬉しかった」
 
 ドイツ・ワールドカップによるJ1リーグの中断期間に、青山のプロサッカー人生は大きく動き出す。
 
 サンフレッチェ広島がシーズン半ばに「ミシャ」ことミハイロ・ペトロヴィッチを新監督として招き入れた時、プロ3年目を迎えた青山の公式戦出場は、新人だった2004年シーズンに記録したカップ戦1試合にとどまっていた。
 
 2004年9月に右腓骨を骨折し、2005年5月に左膝十字靭帯を断裂した青山は、同期や後輩が次々とデビューするのを尻目に、ベンチ入りするのがやっとだった。
 
「一流として期待されて入ったわけではないですし、試合にもまったく出られない。2年続けて怪我もして、今年ダメだったら来年はアウトかもしれないって、不安でいっぱいでした」
 
 実績もない。経験も、自信もない。
 
 だが、青山には覚悟があった。
 
「でも、それならそれでしょうがない。すべてを出して、悔いを残さないようにやりきろうって。その覚悟だけは持っていたと思います」
 
 海外から来た指導者は、実績にとらわれず自分の目を信じて選手を起用する傾向がある。チーム再建を託されて途中就任した新監督なら、なおさらだ。
 
 ペトロヴィッチはリーグ戦未出場の青年に眠る才能をすぐに見出した。あるいは、その青年から並々ならぬ覚悟を感じ取ったのかもしれない。
 
 サブ組だった青山をAチームに引き上げると、戸田和幸と森粼和幸を中盤の底から最終ラインに移して、青山をボランチに抜擢するのだ。
 
 青山も、指揮官の志向する攻撃的なサッカーと自身のスタイルが合うことに、すぐに気づいた。
 
「手応えを感じましたね。もしかするとチャンスが来るかもしれない、チャンスが来たらやれるんじゃないかって。とにかく再開が楽しみだった」
 うだるような暑さの中、連日の2部練習と1日おきの練習試合で鍛えられたチームは、メンバーも、まとう雰囲気もすっかり変わってリーグ再開を迎える。
 
 そのピッチに、青山は立っていた。
 
「プロっていうのは、自分という存在を見てもらう職業なので、ようやくファン、サポーターの方々に見てもらえる立場になれるんだって、それが嬉しくてしょうがなかったです」
 
 今では青山の代名詞となった「縦パス」に自信を持ったのも、この時期のことだ。
 
「練習中に(佐藤)寿人さんから『もうひとつタメてから出して』って要求されたんですけど、それを聞いていた監督が『いや、今のはアオの感覚で絶対にいい』って言ったんです」
 
 その瞬間、縦パスが武器に変わった。
 
「やっぱり、この感覚でいいんだ、これで勝負できるんじゃないかって感じました。そういうのも全部、嬉しかった」
 
 ペトロヴィッチは息子に接するように選手たちを包み込んだが、だからこそ厳格でもあった。時に厳しく叱責することもあり、最も怒られたのが青山だった。
 
 だが、それすらも嬉しかった。
 
「それまでは怒られることすらなかった。自分のために怒ってくれる監督というのが初めてだったんです」