一昨年の安保法案審議で、民主党(現民進党)は現実に即した防衛論戦を期待した国民を裏切り、神学論争に明け暮れた。

 その後党名を変え、党首も代わり、政権政党を目指す決意かと思ったが、衆議院予算委員会での論戦を見聞しているかぎり、過去に学ばず、同じ轍を踏んでいる。

 南スーダン派遣自衛隊の日報にある「戦闘」という用語についての論戦は非生産的である。現場感覚で「戦闘」と書いても、彼らが政治用語と承知して書いたわけではない。

 侃々諤々、理に叶った論戦を挑むならばともかく、政府や防衛大臣を苛めたい、失言を引き出したいという感情だけで喧々囂々と騒ぎ立てているだけにしか思えない。

 日報をベースに現場の感覚を吸収して、「日本の安全保障政策」や「派遣自衛隊の安全」を前向きに議論するのが国会であろう。テレビで観ている範囲では、野党の委員は過度に派遣隊員家族の心配を言挙げしているが、本心は別のように思える。

 賞恤金(しょうじゅつきん)が増額されたことに対しても、既に防衛大臣が「過去の派遣地域と比べて危険やリスクという観点ではなく、現実の南スーダンの勤務環境や任務の特質性などを総合的に勘案して決めた」ことを明確にしているにもかかわらず、わざわざ「危険度が高まったから増額した」のではないかと問い、国民に「危険の増大」を印象づけようとしている。

常套句的に使われる「戦闘」

 現場の隊員が政治的配慮なしに、状況描写をつづるのはいくらでもあり得る。感じたままでない加工された表現では、現実からかけ離れた記述になってしまう。

 現場の厳しい状況を率直に表現することは何より大切であり、そこに政治の要請からくる隠蔽などがあってはならない。

 それでも、日本は部隊を派遣して国際協力をしなければならないという現実認識が、与野党の議員を問わず必要ではないだろうか。その認識を欠くならば、従前と同じ机上の空論に堕してしまう。

 平成16(2004)年当時は、イラクに派遣される自衛隊が問題になっていた。西村眞悟衆議院議員(当時)が『正論』(平成16年3月号)に、「満腔の思いを込めて―イラク派遣の自衛官に申し上げる」の掲題で寄稿している。

 概要は部隊派遣によって「この60年間にわたって目を背けてきた『力』の領域に入る」のであり、それは「国家の運営として戦後今まで知らなかった領域」を意味し、「初めて帝国主義列強の作る秩序の中に入った百四十年前の『開国』に匹敵する」と位置づけ、エポックメイキングな歴史として刻まれる壮挙とみるのである。

 西村氏はその冒頭部分で、「国内の左翼及びマスコミは、つい最近まで自衛隊違憲で飯を食ってきた者どもであり、自衛隊のイラクでの『成果』よりも『落ち度』を探すべく待ち構えている。そして、この者どもが、口には出さないが密かに涎を垂らすかのように期待しているのは、イラクで自衛隊員の中から『戦死者』が出ることであり、相手のアラブ人にも死者が出ることである」と記している。

 西村氏のこの部分ほど野党にとって、国民を説得するのに分かりやすいことはないであろう。しかし当時だけでなく、いまでも野党は西村氏がかつて書いたようなことを密かに願っているのではなかろうか。というのが、派遣している自衛隊の撤収を進めることに一途のようであるからである。

 また、西村氏は「野球なら、ベンチが『アホ』だから試合には出ないと選手が言うこともあり得る。しかし、自衛隊は国内というベンチに『アホ』が多くても出なければならない」とも書いている。

 ベンチのアホが誰かは言わずと知れたことであろう。野球の譬えが出たついでに言えば、野球では「先攻・後攻」、「戦い」、「(バッターを)討ち取る」など、至る所で戦争に関連した用語を使用している。

 海外に派遣される部隊がPKO五原則に依拠することは当然であるが、野球用語が戦争をイメージしないと同様に、日報でも「戦闘」で必ずしも戦争をイメージしているわけではない。ましてや「戦闘」が法律用語であることを意識しないで、一般的な状況描写の常套句として使うことはしばしばである。

 日報に「戦闘」と書いているから、「戦闘状況」が発生して停戦合意が破れている状況にあり、PKO五原則に違反しているではないかというのは、短兵急に物事を決めつけ過ぎている。こうした弊害は、一に現場感覚の欠如から来ていると言わざるを得ない。

 選挙のおり、いくつかの選挙事務所などを回ったことがあるが、事務所には「戦闘開始」とか「激戦を制す」「戦いに勝利」などと平気で書いているのを目にした。「戦闘」「激戦」「戦い」など日常茶飯事に使われている常套句である。派遣部隊が記した日報の「戦闘」だけが特異だとでも言うのだろうか。

現実直視の国会論戦を期待

 ただ、派遣されている自衛隊が困る問題がいくつかある。1つは任務がポジティブ・リストの形で、「○○をやりなさい」として付与されるので、○○に含まれない、例えば人命にかかわる救助要請などがあっても、簡単に手出しができないということである。

 随行記者などは一方では部隊に便宜を図ってもらいながら、人助けとして軽易に行った「任務外」を発見すると記事として発信し、大きな問題になったりすることもある。

 実際にこれまでに派遣されたPKOなどの現場では、国内で想定されなかったこと、すなわち、○○以外のことが多く発生し、上級部隊が統合幕僚監部や日本政府、国連などと調整し、任務を増加してきた。現場指揮官の悩みはこうした○○以外の事象への対処が即座にでき兼ねることである。

 単純化して言えば、○○以外の事象の軽重にかかわらず、対処は命令違反となる。しかし、受け入れ側では、能力を有しながら対処しない派遣部隊への不信感にもつながる。指揮官には、現場で発生する想定外の事象に対処しないことが何とも割り切れず、重圧となって伸しかかってくることになる。

 2つ目は、自衛隊には軍法会議がないことである。このため、例え話で言われるように、万一誰かを殺傷したような場合、民間での裁判を受けることになり、殺人罪などに問われかねない。

 現実に、潜水艦やイージス艦が釣り船や漁船と衝突した事案では、自衛艦の特性や自衛隊の任務の特殊性などへの考慮があまり払われることなく海難審判などが行われてきた。

 これでは、「ことに当っては身の危険を顧みず」という宣誓をして任務に邁進しながらも、現実の法体系などからは任務の特殊性などが一顧もされない不利益を被り、士気に甚大な影響を与える。

 ファジー理論というのがある。電車をホームの停車位置に寸分たがわず止めることは運転手に物凄い重圧を与えるが、わずかなずれは許容されるとなれば、運転手の重圧は一挙に軽減され、むしろ安全運転につながるという譬えで説明される。今日においては至る所にファジー理論が適用されるようになっている。

 派遣部隊の指揮官にとって、ファジー理論の適用に相当することは、「○○をやりなさい」の任務付与から、他国の軍隊同様に「××はやってはならない」(ネガティブ・リスト)の形で与えることであり、軍法会議の設置ではないだろうか。

 任務付与形式がネガティブ・リストであれば、現場において遭遇する想定外にも指揮官は妥当な範囲で迅速・柔軟に対応できる。

 また、問題が発生し、裁判の必要性が生じた場合など、軍法会議があれば、当然のことながら軍事的合理性の視点から検証され、関係する部隊や隊員にとって、安堵感を高めることができる。

 政府は「国際法上、一般的には、(自衛隊は)軍隊として取り扱われる」という答弁書を決定しているが、国内での取り扱いはそうはなっていないため、任務付与も異なれば軍法会議もないのである。

 政治が論戦すべきは自衛隊の国際社会における地位や、上述の問題などではないだろうか。万一不幸な事案が発生した場合、すぐに撤退ということもあり得るが、世界情勢との兼ね合いにおいて決めなければならないことも多いのではないだろうか。

民進党委員たちのちぐはぐ質疑

 衆院予算委員会で後藤祐一民進党委員は、現在問題になっている「戦闘」の語句は法律用語ではあるが、それとは切り離して「現場の厳しい生の事実」を示す言葉として日報に使用していいのではないかと提言した。現場隊員の感覚を持ち合わせた発言であり、これでこそ建設的は論戦ができるように思える。

 他方では同党の辻元清美委員は、日報に「戦闘」という言葉が使われているのは、PKO五原則が破れているのではないかとかなりの時間を費やして追求した。

 辻元委員の意図は、防衛大臣の答弁を混乱させ、「適任でない」「辞任だ」と騒ぎ立てる質疑でしかないように思えてならない。

 そもそも民主党政権時代の派遣自衛隊の報告でも、「戦闘」という語句は使用されてきた。自分たちの時はOKであるが安倍政権では追求するという姿勢が疑問であるし、また同党でありながら、一方では推奨し、他方では問題だというちぐはぐ質問は建設的でないし、時間の浪費以外の何物でもない。

 安保法案審議でも相当の時間を費やしながら、ほとんどは憲法論議の神学論争に終わり、国民には何のための国会論戦であったか最後まで分からなかった。

 無責任という以外になかったし、しかも「戦争法案」と国民に強く印象づけようとするだけであった。その後のいくつかの選挙などでも、「戦争法に反対」など、シュプレヒコールや署名運動を繰り返している。

 当初、PKO議論が始まったとき、派遣部隊の携行機関銃を1丁にするか2丁にするかの議論に相当の時間が費やされた。派遣先で相手を銃撃するというよりも、駐屯する自隊を警護する防御用であり、軍事合理性からは東西や南北の両端に配備して初めて全周警戒が可能で2丁が合理的である。

 これは政治レベルの話しではなく、最終的にPKO五原則にも盛り込まれたように、「最小限の武器」で十分であったのだ。

 自衛隊は国内法で派遣されるが、活動する「場」は停戦合意が行われている国際場裏である。派遣部隊が憲法を奉じて、PKO五原則に則って活動することは言うまでもない。

 しかし、自衛隊が直接巻きこまれていなくても、周辺状況が戦闘にも等しい状況はいくらでもあり得る。南スーダンにおける昨夏の情勢は一時的にそのようであり、国連も抑止のために新たな部隊を派遣したりしたのだ。

 できるだけ現場の状況を正しく伝え、現場から上級部隊へ、そして最終的には政治の判断材料に資するのが日報の類である。自衛隊はどこまでもシビリアン・コントロール下にあり、政治の判断が優先されるし、政治判断が自衛隊の記述などに引き摺られることがあってはならない。

 憲法遵守は大切であるが、一方で国際法は国内法より優位にあり、国際法に反する国内法は効力がない(憲法98条)としている。これは、日本が孤立主義に走ることを防ぐためでもある。

おわりに

 ユークリッド幾何学というのがある。平面上の幾何学で平行線は交わらないとする。これに対して、球面上の平行線は交わることから非ユークリッド幾何学と呼ばれる。同じ「平行線」でも、論じる場によって変わってくるということである。同様に「戦闘」も、現場の実感と、より高度の政治判断で異なるのは当然であろう。

 かつて遠藤浩一教授は「(イラクへ)派遣される自衛隊は、正当防衛の用意は最低限するやうだが、テロリストを討伐するほどの装備は携行できない。かういふ新たな矛盾のなか、それでもわれわれは、国家のために自衛隊を送り出さなければならない」と述べ、それを「政治の不実と怠慢」((『正論』平成16年2月号)と批判した。

 ひとえに憲法の制約からくるのであるが、こうした大きな矛盾を政治は自衛隊をペルシャ湾やカンボジアに派遣し始めて以来四半世紀も解決していない。遠藤教授の指摘からも13年であり、不実と怠慢の極みと言っても過言ではない。

 それよりも何よりも、国民の1人として、国民の税金が政党助成金として支給される政党代表が国籍を明示しないで許されるのだろうか。

 蓮舫代表は稲田朋美防衛大臣の答弁に対して「大臣の任に値しない」と非難するが、そもそも、国籍を明示できない蓮舫氏が代表である民進党に「政党の正当性」があるのだろうか、疑問に思えてならない。

 それゆえに、予算委員会など各種委員会、いや国会論戦そのものを続行していいのかという根源的な矛盾と、国籍を明確に問わずになし崩し的に進む事態に全国会議員の無責任と怖さを感じている。ことは「戦闘」の文言以上に重大であると思うが、いかがであろうか。

筆者:森 清勇