短期連載・今こそ「ジュビロ磐田のN-BOX」を考える(6)

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クラブ世界選手権の中止が磐田に与えた影響

 日本代表がワールドカップに初出場したのは1998年だった。そこで初めて、代表チームは世界と真剣勝負をする機会を得たが、日本のクラブチームが世界と戦う機会はそれまで一度もなかった。

 そのチャンスが2001年に生まれようとして、突然消えた。

 磐田が出場するはずだったクラブ世界選手権が中止になったことについて、福西崇史が私見を語る。

「もし、あのとき、ジュビロがクラブ世界選手権に出ていたら、僕らだけでなく、ほかのクラブもジュビロを通して世界との距離を測れたんじゃないかな。だから、世界に対してのクラブチームの距離は、もっと早く縮まったと思います」

 磐田の世界挑戦が幻に終わったことで、日本のクラブがヨーロッパの強豪クラブと真剣勝負をするのは、トヨタカップから模様替えされたクラブ・ワールドカップにアジア王者として出場した浦和レッズが、準決勝でACミランと戦う2007年まで待たなければならなかった。

 一方、当時監督を務めていた鈴木政一は、クラブ世界選手権がなくなったことで「大きなプラン変更を余儀なくされた」と打ち明ける。

「あの年、ファーストステージを制して、そのままの勢いでクラブ世界選手権に突入し、セカンドステージでは思い切って若手を起用して経験を積ませるプランを温めていたんです。ところが、クラブ世界選手権がなくなってしまったから、目標を完全優勝に切り替えて、セカンドステージもそのときのベストメンバーを送り出すことにしたんです」


2002年には完全優勝を果たしたが、その「代償」は大きかった photo by Getty Images セカンドステージでも磐田はわずか2敗しか喫しなかった。しかし、同じく2敗の鹿島アントラーズに勝ち点1差でステージ優勝を譲り、年間王者を懸けたチャンピオンシップでも、2試合合計2-2でもつれ込んだ延長戦で小笠原満男にFKを決められ、屈することになる。

「その悔しさがあって、2002年はより勝負にこだわるサッカーをして、完全優勝を成し遂げたわけです」

 それは磐田の意地だった。ところが、緩やかな世代交代の機会を失った磐田は数年後、フロントと現場の意見の違いもあって、今度は急激な世代交代を敢行した。藤田俊哉、名波浩、服部年宏、福西が次々とクラブを離れ、強く、美しくもあった黄金期のサッカーが継承されることはなかった。

 クラブ世界選手権の消滅は、磐田というクラブの未来にも影響を与えていたのだ。

ベースにあったオランダのエッセンス

 2001年の試合映像を見た名波浩が「今風だよね」と語った(連載第3回)ように、15年以上経った今なお、N-BOXは色褪せていない。それは、いったいなぜなのか――。


磐田だからこそ可能だった、N-BOXによる緻密なサッカー photo by AFLO その疑問を解くカギは、オランダのトータルフットボールにあった。磐田がJリーグに昇格した1994年から3年間、指揮を執ったハンス・オフトはオランダの指導者で、かつてヤマハ発動機の臨時コーチを務めたこともあった。その影響について、鈴木政一が振り返る。

「僕は現役時代、ヤマハでハンスの指導を受けているし、ジュビロでもスタッフとしてハンスと接してきたから影響はかなり受けていると思います。一方、選手たちもハンスからグループ戦術や個人戦術などの基礎を徹底的に叩き込まれていますから」

 攻撃力に長けたチームだから、攻撃の時間をできるだけ増やすために、ボールを集団で素早く回収するというN-BOXのコンセプトの背景には、オランダのトータルフットボールのエッセンスがあったのだ。それはすなわち、現代サッカーに通じるものでもある。

 中盤がサイコロの5の目のような特異な形に加え、もうひとつの特徴が、ゴールキーパーを除いてレギュラーが全員、日本人だったことだ。助っ人頼みではないという点においても当時の磐田は異彩を放っていたが、「日本人だけだったことが大きかった」と名波は言う。

「日本人だけで凄いねってよく言われたけど、逆説的に言うと、外国人がいないからうまくいくというのが俺らの考え。例えば、(パトリック)エムボマ(元ガンバ大阪など)やピクシー(ドラガン・ストイコビッチ/元名古屋グランパス)がいたら、こんなに緻密なことはできない。彼らに任せちゃうから。当時のジュビロにはそれがなかった。このサッカーをみんなで作り上げていくという感覚があったよね」

 鈴木秀人が「日本人だけ」という強みを補足する。

「このサッカーをやるうえで、コミュニケーションのすり合わせってすごく大事。そういう意味では、僕らは本当によくしゃべっていた。あと、日本人は気を使えるじゃないですか。それぞれのストロングポイントを生かすために、みんなが気を使い合っていたんです」

 右サイドでいえば、攻撃的ミッドフィールダーの藤田俊哉を自陣深くに下げると、その攻撃力を半減させてしまうことになる。そこで、右ボランチの福西がスライドして右サイドの守備にあたったが、それを何度も繰り返すと、福西のストロングポイントである中盤でのボール奪取力と、ゴール前への飛び出しに支障をきたしかねない。鈴木秀人が続ける。

「だから、状況によっては僕がサイドに出て、それに合わせてディフェンスライン全体が右にスライドするという形ができあがった。納得のいくまで話し合って、試行錯誤しながら、あうんの呼吸と言えるレベルまで磨いていったんです」


N-BOXの基本フォーメーション(2001年4月7日の鹿島戦)graphic by Unno Satoru さらに名波が、中盤の5人について言及する。

「奥(大介)は苦しいときにドリブルで2、3人はがしてくれるし、俊哉はボックスの中で決定的な仕事をしてくれる。俺だったら劇的に展開を変えるようなボールを出す。ハット(服部)はバランスを取りながら広い範囲をカバーしてくれて、フク(福西)はボールが取れるし、2、3人飛び越して出ていってくれる。異なる個性が組織として融合するのって簡単なことじゃないけれど、ゴンちゃん(中山雅史)やタカ(高原直泰)、3バックも含めて当時のジュビロはうまく回っていた」

日本らしいサッカーの理想形

 一人ひとりが技術とアイデアを駆使し、短所を補い、長所を引き出し合う。誰ひとりとしてサボらず組織的にボールを回収し、人とボールが高密度で連動したアタックを仕掛けていく――。

 それが「日本らしいサッカー」なのだとすれば、まさに2001年の磐田が見せたサッカーがそうだった。

 そこには、5年後の2006年にイビチャ・オシムが日本代表監督に就任した際に説いた「日本代表の日本化」がすでに発露していたように思える。

 鈴木政一のあとを引き継いで、2003年に監督を務めた柳下正明が振り返る。

「オシムさんも2003年からジェフの監督になったんですけど、あの年、オシムさんが『ジュビロはとてもモダンなサッカーをしている』と言ってくれたんです。形はN-BOXではなかったけれど、やっている内容は2001年と変わらなかったですから」

 オシムが志半ばで倒れ、岡田ジャパンがワールドカップ直前に方向転換し、ザックジャパンがブラジル後で実現させようとして打ち砕かれた、日本人の、日本人による、日本人のためのサッカー――。

 そのひとつの理想形を、我々は15年前、すでに目にしていたのだ。

***   

 磐田はその後、2013年にJ2に降格し、1年でのJ1復帰に黄色信号が灯った2014年9月、名波が監督として古巣に復帰した。その年のはじめに強化部長に就任した服部、15年にアカデミーの監督に就任した田中誠と、黄金期を知るレジェンドたちが続々とフロントやコーチングスタッフとして帰還している。

 現代サッカーのスタンダードはこの15年の間に驚くべき速さで変化し、激しさとスピードが求められるようになった。効率が重視される今、フォーメーションとしてのN-BOXを再現するのは困難なことだろう。

 しかし、「高い位置から奪いにいく、アクションサッカーをやっていく」と公言する監督としての名波にとって、N-BOXの本質そのものは、ひとつの理想として頭の中にあるはずだ。

 J1復帰2年目となる今シーズン、磐田はひとりの選手を迎え入れた。

 中村俊輔。指揮官とサッカー観を共有する稀代のレフティである。

 日本を代表するゲームメーカーの加入は、あの強く、美しい磐田復活のプロローグとなるだろうか。

(おわり)

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