清水富美加に関する報道をする週刊誌

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■幸福の科学に出家した、清水富美加の心の中

女優の清水富美加さんの電撃引退と、出家のニュースが駆け巡っている。

彼女の引退の真相を巡り、主に所属する芸能事務所との「契約関係」について様々な見解がなされている。しかし、それらは「外野スタンド側からだけの目線」に思える。現代の宗教や入信者の「事情」も取材している私は、問題の核心はもっと別にあると見ている。

今回、「社会人として、責任をもって仕事を(契約完了まで)完遂すべき」との声がある一方で、彼女の「心の悩み」について、もっと目を向けるべきだという人もいる。

幸福の科学によると、彼女自身が仕事に悩み、周りに「死にたい」と漏らすなど、命の危険まであった事態だという。その結果として、出家という、教団の職員になる道を選んだとされる。宗教側としては、彼女の危機的状況を阻止したという主張である。

もちろん、彼女自身が悩み、この宗教が救いの道を差しのべたこと自体は、事実であろう。ただし、この点は、注意して取り扱って見ていかなければならない。

私はこれまで、こうした様々な思想に触れた経験があるのでわかるが、宗教の教義において「死」というものは、日常的に取り扱われている事柄である。普段、私たちが生活するうえで、悩みがあっても「死」ということまで、極端に考えるまでは至らないことも多い。

しかし日頃、信仰生活している人たちにとって、「死」「あの世」「来世」という言葉は、極めて身近にあるものなのだ。それゆえ教義に心酔すればするほど、思いつめる傾向のある人にとって、悩みはより深刻なものになっていく。これは特段、幸福の科学だけに限ったことではなく、あらゆる宗教教義にもいえることである。

■「教義」に心酔するほど悩みが深まる場合もある

私が、ある教団内で目にした光景である。

ある男性はかなり真面目な人であった。教義の教えにのめりこむあまり、その教えすべてを受け入れていくようになった。

例えば、「私たちの目の前に起きることには、すべて意味がある。神が何かを私たちに伝えようとしているので、それを悟りなさい」という言葉。これをその男性は死守しようとする。

男性が、信号を渡ろうとしたら、青が点滅し始めた。それが2度も続いた。男性は、「神は何をいいたいのだろうか」と考えた。「信号を走ってわたるべきか、それとも止まるべきなのか」そこからさらに思いは発展する。「もしかして、自分自身の信仰の信号が赤に向かって点滅していることなのか。信仰を見つめ直せということか」

この調子で、身の回りに起こるあらゆる出来事が気になるようになった。駅で人とぶつかった。

「何か、意味があるのか。日ごろの信仰に問題があるから、人とぶつかったとのか。神は何が言いたいのだ」

それを教団の上司に聞くも、「祈って悟りなさい」といわれるばかり。ますますわからない、彼はどんどん精神的に不安定になっていった。教えでは、神の意に反した行動をすれば、教えでは事故に遭う、病気になる、地獄にいくとも言われている。彼はある時、心境を吐露した。

「もう、怖くて道も歩けない」

このように、必ずしも教義自体がその人の心を救うとは限らない。かえって、その人の悩みを深くしてしまうことだって、十分にありえるのだ。教えには、救いというプラスの面だけでなく、教えが及ぼすマイナスの影響についての視点も必要なのである。

今回の彼女の件でいえば、「突然、仕事を放棄するとは、社会人として失格だ」という厳しい声が多いが、教義に触れているがゆえに、仕事を放棄せざるを得ない状況に至ったともいえる。実際に、「水着の仕事では、性的対象になるのが嫌だった」と語っているようだが、これも「正しき心の探求」のために、邪(よこしま)な思いは、持つべきではないとする教えからくるものと考えてよいだろう。

ここで大事なのは、与えられた決め事との付き合い方だ。

■“掟”に従わないほうがいいときもある

世の中には多くのルールがある。

会社における「報告・連絡・相談を怠るな」「常に感謝の心を忘れるな」「全身全霊で仕事にあたれ」といった社訓もそのひとつだろう。組織として活動をしていくうえで何かしらのルールを決めて、共通の認識を持つことは必要である。

ところが、日々の仕事をしていくうちに、ポリシーや社内ルールと相反するような事柄が出てくる。それでも、決め事通りに、行動しなければならないのかどうか。

電通に入社して1年目の女性社員が、過労により自殺する事件が起きたのは記憶に新しい。この件に関して、電通の社員心得「鬼十則」が、長時間の労働を助長しかねないと、遺族らが問題視しているというニュースも流れた(同社は昨年末、「鬼十則」を社員手帳から削除すると発表)。

その心得には、「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは」といったものもあるが、もしかすると新人社員である彼女自身は、額面通りこの言葉を受け取って行動しようとしたのかもしれない(もちろん、上司や会社側に最大の問題があったことは言うまでもないが)。

こうした社訓は、多くの企業に様々にあることだろう。だが、これを100%受け入れて、四六時中、働いていては、心は疲れるばかりだ。それに理想通りには、物事は運ばないことも多い。

その時、ルールといかに折り合いをつけて、行動するかが大事になる。あくまでも社訓というものは、働く上での定規の役割だ。定規自体を絶対視してしまうと、プラスの面よりも、マイナス面が出てきてしまうことになる。

特に社会経験の少ない若い人たちは、その辺りの匙加減がわからず、言葉を額面通り受けとってしまいがちになる。その定規の使い方を、上司や先輩社員が、適宜、教える必要があるだろう。

規「則」が規「束」になっていないか。

注意してあげることだ。それができないと、重大な問題が生じることになりかねない。先の電通の事件などは、まさにその典型例であるのかもしれない。

これからたくさんの新入社員がビジネスの舞台にデビューする時期を迎える。

おそらく、学生時代とは違う、新しい社会のルールのなかで、多くの若者が悩むに違いない。その時、「自分の頭で考えろ!」と、厳しく接することも必要だが、時に社会人の先輩として、ルールのマイナス面が作用しないように、物差しの使い方を適切に指導することが求められる。

決まり事には、功罪があるもの。部下を育てるのがうまい会社と、そうでないところの差は、案外、そうした点がわかって指導を行っているか否かというところにあるといってもよいだろう。

(ルポライター 多田文明=文)