和島あみ、18歳。人生の転機は自分で掴み取れ。人間は変わることができるから。
ある日突然ベッドから起きあがれなくなった。学校に行けず、布団の中で過ごすようになる。音楽を聴きながら、大声で歌いながら。彼女は、幼い頃に思い描いた「歌手になりたい」という気持ちの強さに導かれるように、やがて引きこもっていた部屋を飛び出し、住み慣れた町を離れることを決意する。都会の高校に通いながら、アルバイトでレッスン代を稼ぐ日々。そして2016年、オーディションで10,041名の頂点に輝き、メジャーデビューの夢を叶える――弱冠18歳のアニソンシンガー・和島あみの“歌”への思いは誰よりも強いのだ。

撮影/西村 康 取材・文/照沼健太 ヘアメイク/松田美穂(allure)


“歌”がコンプレックスを長所に変えてくれた



――きょうは和島さんのルーツに迫ることができればと思い、まずは小さい頃のお話からお伺いしていきます。小学生の頃から、自分の声が低いことがコンプレックスだったそうですね。

もともと歌うのが好きで、声が大きい子だったのですが、あるとき友だちに「あみちゃんって変な声だね」って言われて。聞き流してしまえばよかったのに、何気ないそのひとことがずっと引っかかって、「私って変な声なんだ」と気にするようになりました。たしかに、みんなの「キャー!!」という声の高さに合わせられないとは思っていたんですけど。

――そんな和島さんに、ご両親が中森明菜さんの歌を聴かせてくれたとか。ご両親に相談されていたんですか?

「声が変って言われた」とか「私の声って変かな?」とか聞いていたそうです。それで「声が低い人もこうやって活躍してるんだよ」という例として教えてくれたんだと思います。

――中森明菜さんの歌を聴いたときはどう思いましたか?

カッコいい!!と衝撃を受けました。自分のコンプレックスを長所に変えられるかもと教えてくれたのが、まさに中森明菜さんでした。

――歌手になりたいと思ったのはそこから?

そうです。運動も苦手だし、勉強も苦手で、学校では何も上手にできないと思っていたのですが、自分には「歌手になる」という選択肢があるんだと。成長するにつれて「これをやるしかない」と強く思うようになりました。

――歌のレッスンに通い始めたのはいつからですか?

中学を卒業して、高校に入ってからです。地元の倶知安(くっちゃん)から札幌に引っ越してひとり暮らしを始めて、ダンスや歌を習い始めました。

――レッスンを受けるために札幌へ?

はい。「16歳でひとり暮らしなんてとんでもない」と親にはすごく反対されましたが、「始めるなら早くないとダメな気がする」と説得して。札幌では高校に通いつつアルバイトをして、レッスン代を稼ぐという生活を送っていました。



――「始めるなら早くないとダメ」と考えたのはどういう理由からですか?

たぶん、中森明菜さんのデビューが16歳だったからじゃないかと思います。今となっては「そんなに焦らなくても…」と思いますが。あ、でも最近はまた「焦ろう」と思ってます。油断しちゃいけないぞ、と(笑)。

――倶知安町で生まれ育ったことが、自身の性格に影響していると思いますか?

思います。札幌でひとり暮らしをしているときも、まわりの人と自分を比較して、ひがんだり悔しいと思うこともありました。田舎で育っていなかったら、こんなにハングリー精神を持って頑張ることはできなかったと思います。

――倶知安はどんな町なんですか?

スキー場が有名なんですけど、それ以外は何もないところです(笑)。CDを買えるお店もTSUTAYAが1軒しかなくて、映画を観に行くにも勇気を出して小樽の映画館まで1時間半かけて行くっていう。どうしても行きたいライブがあれば札幌に行くという感じでした。

――デビューをキッカケに上京されましたが、東京に来てビックリしたことはありますか?

とにかく人が多い!! 「どの駅で降りてもいっぱい札幌があるな!?」みたいな。電車の乗り換えも難しくて、逆方向に乗ったりしていました(笑)。

――北海道に戻りたい…とホームシックになったことはありますか?

はい(笑)。こうして東京でお仕事をやらせていただいていることは楽しいし、とてもありがたいのですが、住む場所としての東京は好きではないんです(笑)。時の流れも何もかも速くて「激しいな」と。飛び出してからやっと倶知安の良さに気付きました。



人生で「一番しんどかった」時期を乗り越えて



――中学生の頃のお話に戻るんですが、不登校になって家に引きこもっていた時期があると伺いました。

……まだ18年しか生きていませんが、人生で一番しんどかった時期でしたね。でも「あの時期があったから今がある」とプラスに捉えられるようになって、こうして誰かに話せるようにもなりました。

――当時、どのような悩みを抱えていたのか、お話できる範囲で教えていただけますか?

イジメられていたとかいうわけではなくて、中1の夏休みが明けたときに、学校に行けなくなっちゃったんです。私はその頃のことが本当につらくて、記憶にあまりないのですが、この前、お母さんが「あみがベッドで動けなくなってた」と話していて、「そうだったんだ」と。

――突然に?

突然、ベッドから起きてこなくなったみたいです。自分でもなんでそうなったのかわからないんですけど、たぶん、我慢していたものがいつのまにか溜まってしまっていたんだと思います。

――そうだったんですね。

聞いたところによると、全国の不登校児の多くは、自分が不登校になった理由をわかっていないらしいんです。私はその典型パターンだったという気がします。

――部屋に引きこもっていた時期は何をしていたんですか?

ずっと布団の中にいました。布団の中で音楽を聴いていた気がしますし、布団をかぶったまま大声で歌っていたことは覚えています。



――外に出るキッカケは何だったのでしょうか?

高校に行きたかったから受験しないといけないというのもありましたし、「高校生になったら札幌に行って歌手になる」と思っていたことが大きかったと思います。やりたいことが明確になっていくにつれて、“引きこもり”と“歌手”が遠い場所にあることに気付きました。歌いたいから外に出たんです。

――そこで先ほどのお話に戻るのですが。単身札幌に渡り、学業とアルバイトの傍らレッスンに通い……そして2016年に開催された「ホリプロ×ポニーキャニオン次世代アニソンシンガーオーディション」を受けた、と。

一緒にレッスンを受けていた子に「こんなオーディションがあるよ」と教えてもらいました。歌うことはもちろん、アニソンも大好きだったので、これに受かったら私が思い描いていることが全部実現できる!と思って。それで応募して、「書類が通りました」という一次審査の結果が来たんですけど……面接に進むかどうか、ギリギリまで迷いました。

――意気込んで応募したのに?

二次審査がいきなり東京での面接だったんです。飛行機に乗るお金もなかったし、ひとりで東京に行くのも恐ろしかったから、すごく悩みました。親にも相談して、実は一度「行きません」と連絡をしたんですけど、迷った末に結局行くことに決めて……。

――オーディションを受けること自体が大きな挑戦だったんですね…! 応募総数10,041名の頂点に輝いたわけですが、グランプリを獲得した瞬間のことは覚えていますか?

頭が真っ白になりました。「和島あみさん」って名前が呼ばれたときに「誰だよ!?」と思ったくらいです(笑)。

――(笑)。ご家族やご友人など、周囲の反応はいかがでしたか?

夢を叶えるためにどん底から抜け出したところも両親はずっと見ていたし、他の人たちも私が「歌手になりたい」という一心だけで行動していたのを知っていたので、とても喜んでくれました。

――高校生のうちにメジャーデビューの夢を叶えるというのは、一見するとすごく順調のようですが。

高校入学から卒業までっていう、期間だけ見たらとても短いですよね。でも自分的には……、「いろいろあったけど、夢が叶ってよかった」みたいな感じです(笑)。