横浜フリューゲルスが消滅した当時、同クラブに在籍していた桜井孝司氏【写真:宇都宮徹壱】

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「強いフリューゲルスを見せたい」

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。【後編】(取材・文:宇都宮徹壱)

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(クラブ存続の)署名活動は、もちろんやりました。みんなで手分けして、練習後に横浜駅なんかで夜遅くまで署名をもらっていました。ファンをはじめ、いろんな人たちから声をかけられましたけど、ひとつひとつの言葉は覚えていないですね。気持ちの余裕がなかったですから。

 フリューゲルスが残ってほしいと思う一方で、「自分の来季はどうなるんだろう」という不安もありましたし。残念ながら、ファンのことまで考えられるような選手は、あの時はそんなに多くはなかったと思います。

 僕自身は(存続に)かすかな希望は持っていました。社長も「撤回になるように努力する」とは言っていましたし。ほんの少しでしたけど、期待はしていました。

 期待が完全になくなった時ですか? うーん、いつだろう。合併の調印式(12月2日)よりは前でしたね。(Jリーグの)シーズンが終わって、天皇杯が始まる前だったと思います。

 僕の周りで「移籍先が決まった」みたいな話がちらほら聞こえてきて、それで「ああ、やっぱりなくなるんだな」と。僕自身ですか? そういう話は一切なかったですね。

 それもあって、天皇杯(3回戦)が始まる前のミーティングで「サク(桜井)を出してやろうよ」という話になったんだと思います。言ったのはアツさんだったかな。要するに天皇杯を、まだ行き先が決まっていない選手のアピールの場にしよう、という話ですよね。ゲルトも「選手たちの意思を尊重する」というスタンスだったと思います。その時でしたね、あの言葉が出たのは。

「強いフリューゲルスを見せたい」──細かいニュアンスは覚えていませんが、意味としてはそういうことです。現時点でオファーがないのは、単に僕の実力がないというだけの話。

 でも、やっぱり僕もプロなので、フリューゲルスで優勝したいという思いがありました。もし、あの時の言葉がなかったら……たぶんゲルトは僕をはじめ、移籍先が決まっていない若手中心でメンバーを組んでいたでしょうね。そうなっていたら、(天皇杯は)間違いなく違った結果になっていたと思います。

最後まで決まらなかった移籍先

 天皇杯は(3回戦の)大塚製薬戦はベンチ入りして、ラスト1分で永井(秀樹)さんとの交代で出場しました。次の鳥取での甲府戦はベンチから外れたんですけど、準々決勝(対磐田戦)からは「もう最後だから」ということで、選手全員がチームに帯同することになりました。

 ベンチ入りの選手は前泊して、試合に出ない選手は新幹線で当日入りしたのは覚えています。移動費については、おそらく浩二さんが会社側と交渉して、捻出してくれたんだと思います。

 準々決勝から決勝までは、スタンドではなくピッチサイドで見ていました。選手用のパスを首からぶら下げて、水を持って行ったりとか、ユニフォームの着替えを渡したりとか。僕だけでなく、試合に出られないみんながやっていましたね。

 ジュビロに勝ってからは「最後(決勝)まで行くぞ!」という雰囲気になりました。スタメンもベンチも、ベンチ入りできない選手も、一致団結していました。準決勝でアントラーズに勝ってからは、みんなでご飯を食べに行って「こうなったら優勝するしかねえな」みたいな話をして。あんなにチームに一体感があったのは、僕が知る限り初めてでしたね。

 決勝で印象に残っていることですか? 小学校からずっと先輩だった久保山さんが同点ゴールを決めた瞬間ですね。そんな派手な選手ではないし、膝の調子が悪くて苦しんだ時期も知っていたので。優勝が決まった時は、とにかく嬉しかったです。フリューゲルスの一員で良かったと、心から思いました。

 僕はベンチ入りしていなかったので、授賞式にはいなかったんですけど、最後はみんなで記念写真を撮ったのかな。試合後、全日空ホテルで祝勝会がありましたが、お別れ会でしたよね。涙を流している選手もいました。その後、二次会に流れた人たちもいましたけど、僕は次が決まっていないのですぐに帰りました。

 実は僕だけが、最後まで移籍先が決まらなかったんですよね。天皇杯で優勝するまでは、一切自分のことは考えていなかったし。性格ですかね(苦笑)。あと、若くて生意気だったので、フロントの人たちから良く思われていなかったというのもあったかも。

 結局、コンサドーレ(札幌)が決まったのは、年を越してからでしたね。トレーニングを兼ねて、アツさんや永井さんと1月にハワイに行ったんですよ。で、当時の携帯電話ってグローバルじゃなかったから、ホテルから自宅の留守電を聞いたんですね。そうしたらコンサドーレの強化部長から「すぐ来てくれ」とメッセージが入っていて(笑)。慌てて日本に戻りました。

現役最後の公式戦は社会人サッカーで

 コンサドーレは、ちょうどできたばかりのJ2所属で、岡田(武史)さんが監督に就任して1年目でした。開幕戦には出場できて、いい感じでは入れたんですけど、その後はベンチスタートが続きましたね。

 ちょうど吉原宏太が売り出し中で、それでもチャンスはあるだろうと思っていましたけど、負けてればスピードのある選手が、勝っていれば守りを固める選手が使わるので、出番はなかったです。

 J1昇格が決まった次のシーズン(00年)もいましたけど、結局、リーグ戦は(2シーズンで)8試合に出ただけでした。そのオフはゼロ円提示ですよ。フロントからは「数チームからオファーがある」と言われましたけど、若かったこともあって断ってしまいました。もうサッカーを辞めるくらいの気持ちでしたし。

(01年に加入した)夕張ベアフットは、北海道リーグ所属のクラブで、コンサドーレにいた選手が監督兼任でプレーしていたんです。「手伝ってくれ」みたいな感じで言われて、1年間だけですが地域リーグでプレーしました。

 全社(全国社会人サッカー選手権)にも、地域決勝(全国地域リーグ決勝大会)にも出ましたよ。確か高知の春野が会場だったかな。2戦目で僕、初めてレッドカードをもらったんです。

 社会人のサッカーって、荒いじゃないですか。僕がボールキープしていたら、後ろから削られて、それで蹴っ飛ばしたら一発退場です。結局、それが最後の公式戦になりましたね。サッカーに未練がないわけではないけど、24歳で現役をあがることにしました。

僕はフリューゲルスの「いちファン」

 サッカーを辞めてから、東京に戻って次の生き方を模索しました。とりあえず求人雑誌を買い込んで、初めて履歴書というものを書きましたよ(笑)。面接にも行きましたけど、全部落ちました。やっぱり甘くないんだなって思いました。

 最初はサッカー以外の仕事を探していたんですけど、その後クリニックの手伝いをしながら子供たちにサッカーを教えるようになって、仕事としての面白さに気付くようになりましたね。いろいろ紆余曲折ありましたけど、ようやくセカンドキャリアの方向性が定まって今に至っています。

 僕にとってのフリューゲルスですか? 確かに、初めてプロとして入ったチームではあるんですけど、「いちファン」という感情も強かったように思います。だからこそ「強いフリューゲルスを見せたい」という言葉が出てきたのかもしれない。

 今でも懐かしく思いますし、大好きなチームです。ただ、あの時チームメイトだった人たちとは、もうあまり連絡を取っていませんね。みんな、それぞれの職場で忙しいだろうし、(関係性が)変わってしまった人もいるし。もう、随分と時間が経ってしまったから、それは仕方がないことですよ。それでも今日、久しぶりに当時のことをお話できて、僕も嬉しかったです。

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「両校優勝」「サテライトリーグ」「自宅の留守電」──今の20代には、ちょっと説明が必要なフレーズが頻出する。桜井が語る物語は、それだけ昔の話である。

 しかし一方で、当事者たちにとっての「フリューゲルス消滅までのカウントダウン」は、20年近くが経過した今でも忘れがたいリアルな記憶として脳裏に刻まれている。実際、桜井による証言も、当時の記録と照らし合わせると非常に正確なものであった。

歴史化していくJリーグ黎明期の出来事

 さて、そろそろ今回のインタビューの種明かしをすることにしたい。当企画は、間もなく20年を迎える「Fの悲劇」を巡る証言集を目指している。

 このテーマに関しては、当時の中心選手だった山口素弘による書籍『横浜フリューゲルス消滅の軌跡』(日本文芸社/99年)があるし、当時Jリーグチェアマンだった川淵三郎や同専務理事だった木之本興三(故人)も、折に触れて当時を振り返っている。

 もちろん、そうした証言が重要であることについて異論はない。しかし他方で「Fの悲劇」の語り部が、これまで極めて限定的だったということについては、いち読み手として不満に感じるところでもあった。

 あれから間もなく20年。選手であれ、フロントであれ、そしてサポーターやJリーグ側の人間であれ、当事者たちのほとんどは当時と異なるステージで活躍している(天皇杯決勝に出場したメンバーで、今も現役を続けているのはGKの楢崎だけだ)。

 20年という時を経たことで、今なら語れることもあるかもしれない。また、これまで表に出てこなかった証言を発掘することで、「Fの悲劇」に新たな光が当たることになるかもしれない。

 フリューゲルスが「伝説」を成就させた表彰式、優勝メダルを授与していた専務理事の木之本は、ある選手から「チームを潰しやがって、覚えてろよ」と囁かれたという。その木之本が、辛く長い闘病生活の末に先般亡くなったことで、Jリーグ黎明期がいよいよもって「歴史化」していくことを強く実感するようになった。

 当時と今とでは、Jリーグを取り巻く状況も、そして日本社会そのものも大きく変質している。しかしどんなに時代が変わっても、われわれサッカーファンは「Fの悲劇」を決して忘れるべきではない──。そんな思いを強く懐きながら、時代の証言者を訪ね歩く旅をスタートさせたい。

<次回につづく/文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)

text by 宇都宮徹壱