ピョンチャン冬季五輪まであと1年。現地ではいまプレ大会が行われているが、準備の遅れや、現地の関心の低さを報じるニュースを耳にするのも、この時期の恒例。今回はお隣、韓国の話だ。ヒートアップしたくなるのも分からないではないが、日本も胸を張れる立場にはない。新国立競技場問題やエンブレム、その他の施設にまつわる一連の騒動を見ていると、他人を笑う余裕はないはずだ。
 
 2014年W杯決勝と2016年リオ五輪の開閉会式の舞台になったマラカナンスタジアムが現在、ひどい惨状にあるとのニュースも報じられた。電気、ガスが止められ、スタジアムにはぺんぺん草が生えている状態。機能停止状態にあるとのこと。負のレガシーへの道を歩み始めている。
 
 このニュースも、ブラジルらしい話で済ますことができなくなっている。明日は我が身。多くの人は50歩100歩かもしれないと、その話を他人の不幸として捉えていないように思う。
 
 気付くのが遅いくらいだ。2020年だ、東京五輪だと言うけれど、世界的にはそれと同規模の、あるいはそれ以上のW杯を、日本は2002年に韓国と共催した実績がある。その時、数多く建設されたスタジアムのその出来ばえや、費用対効果など、現状について、新国立競技場等、五輪の施設を建設する前に、深く検証しなかったのだろうか。
 
 2002年日韓共催W杯のために建設されたスタジアムで、世界のスタジアム通が、「いいね」を押したくなるスタジアムは幾つもないと思う。韓国の方が大きく勝っているとは、両者のスタジアムをすべて客観的に比較したこちらの印象だが、そうした話が議論された形跡はない。視点にさえなっていない。

 欧州諸国など、国境が地続きで接しているなら万事、隣の国の評判は直ぐに耳に飛び込んでくる。対外的な評価を耳にしやすいが、日本はそうした環境にない。外国は遠い。よって、日本の特異性を自覚しにくい体質を抱えている。気がつけば、韓国、ブラジルを笑えない状態に陥っていた。と言うのがいまの姿ではないか。
 
 日本が胸を張る、おもてなしも、果たして実際はどうなのか。外国人の旅行者の痒いところに手が届いているものなのか。一方通行になりがちな、日本のしきたりに基づく独善的なものなのか。確認できない環境にある。

 当然、これはサッカーにも適用される。日本のサッカーとは? その特異性について、答えられる日本人は少ない。

 日本は南米的で行くべきか、欧州的で行くべきか、その目指す方向についての問いは、古くから投げかけられてきた。しかし、投げかけられても、投げ返すことができなかった。毎度、深い議論に発展していかなかった。理由は、問いそのものに力がなかったからだ。避けてきたと言うより、その必要性をあまり感じなかった。サッカーの中身について言及しようとする習慣がなかったのだ。

 圧倒的な個人技を誇るブラジルに対抗するにはどうするべきか。そのコンプレックスを除去する方法として導かれたのが戦術。欧州は戦い方を工夫することで差を補おうとしたーーとは、その昔、ヒディンクから聞かされた台詞だが、日本で湧いた「南米か欧州か」の問いかけは、そこまでの切実さがなかった。自分たちは何にコンプレックスを感じるのか。何に胸を張れるのか。そこが明確でなければ、模索する動機は低下する。

 欧州では、そうした中で攻撃的サッカーが生まれたり、守備的サッカーが生まれた。どの国が攻撃的で、どの国が守備的か。中身に対する議論が進めば進むほど、自らの立ち位置は鮮明になった。違いは、国単位はもとよりクラブ単位でも浮き彫りになった。

 そうした議論が沸いた形跡がない日本。比較対象物もなければ、外国から指摘されることもない。ジーコ時代まで、代表チームが欧州で守備的と言われるサッカーを延々と繰り広げてしまったのは、守備的サッカーをしたかったからではなく、自分たちの姿が見えていなかったからだ。それ以降、少しずつ攻撃的になっていくのだが、それも自分たちが欲した結果とは言い難い。

 時の監督に任せっきり。日本人の監督が7割方を占めるJリーグ各クラブのサッカーにもそれは現れている。これほど守備的なサッカーが幅を利かせている国も珍しい。欧州で最も守備的なイタリアといい勝負。結果的に、そうなってしまっている。それを指摘されることもない。他国のメディアが、そうした日本の傾向について指摘してくることもない。
 
 切磋琢磨する相手がいないことによる刺激不足。ほぼ無風状態が作り出す鈍感さが自分自身を見えなくさせている。その特異性に気付けずにいる。日本の進歩を妨げている一番の要因だと僕は思う。そしてそれは、サッカーに限った話ではない。まさに万事に共通する話ではないだろうか。改善するには、メディアが頑張るしか方法はない。僕はそう思うのだ。