『棄種たちの冬 (ハヤカワ文庫 JA ツ)』つかいまこと 早川書房

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 つかいまことは第3回ハヤカワSFコンテストに投じた『世界の涯ての夏』が佳作となりデビューした新鋭。1969年生まれだから、この同コンテスト出身者のなかでは最年長にあたる。本業はゲームデザイナーでRPGシナリオを担当しているというだけあって、物語のつくりが巧みだ。小さな情景のなかに大きな世界を映しこむ表現、登場人物の所作や情動にフォーカスしながら力強く物語を駆動する手さばき。複雑な設定にリアリティをもたせる必要上、あるいはプロットの都合のためか、現代のSFは長尺になりがちだ。しかし、つかい作品は、デビュー作『世界の涯ての夏』も、二作目にあたるこの『棄種(きしゅ)たちの冬』も、コンパクトな枚数のなかに無駄なく物語とテーマを展開している。

『世界の涯ての夏』では、地球を浸食する異次元存在〈涯て〉とそれを食いとめようとする人間の想念との拮抗が描かれていた。つまり、人間は破滅の瀬戸際に立っていた。それに対し『棄種たちの冬』は破滅後の世界が舞台となる。『世界の涯ての夏』とは物語上のつながりはなくまったく独立した作品だが、人間のおかれている状況という点で、対照的に読めるところが多い。

『棄種たちの冬』の冒頭は印象的だ。


 ふゆがくるの?
 小さなきょうだいたちの、だれかがそう聞いた。
 そうだよ。
 ぼくはいちばん歳上らしく、落ち着いて聞こえるように答えた。
 (略)
 だんだん冬が大きくなって、長くなって、人は皆死んでしまった。
 だから今、人は少ししかいない。

 いつかこの世界には、永遠の冬が来る。

 作者自身が意識しているかどうかはさだかではないけれど、ぼくはここにつらなる言葉からジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの傑作「愛はさだめ、さだめは死」を連想した。ティプトリーは「冬たちが大きくなる」と複数形を用いていたが、「冬が大きくなる」はあの物語のなかで呪文のように響いていた。

『棄種たちの冬』もまた、愛と死をめぐる物語だ。

 大規模な気候変動によって滅亡に瀕した人類は、物理的な身体を捨てて演算世界へ移住することを決意する。確度の高い気候予測シミュレーションすら実現していたこの時代にあって、健全な地球環境をデータ上に構成することはさほど困難ではなかった。作られた知性(シンギュラリティ後の人工知能)の判断では、物理現実でシェルターをつくって百人を生かすコストで、全生命を丸ごとバックアップして演算世界で走らせることが可能だった。ひとそれぞれが備えている遺伝的なものも、器質的なものも、神経系のネットワークも、すべて精緻に読みとる技術も確立されていた。

 物語の開幕は、この移住が敢行されてから長い年月がすぎたのちだ。ほとんどの人類は演算世界で終わることのない生を営みつづけている。しかし、物理現実に残った人間もわずかながらおり、その末裔は厳しくなるばかりの環境で細々と生をつないでいた。

 演算世界と物理現実は非対称だ。演算世界の人類は、物理現実に生きる人間がいることを知っており、彼らを棄種と呼んでいる。いっぽう、文明を喪失した棄種たちにとって、演算世界のことなど知るすべもない。

 さまざまな種類の菌(きのこ)が繁茂する菌叢に分けいっておこなう猟が、棄種たちが糧を得るほとんど唯一の手段であり、危険な生物や毒のある菌によって命を落とすことも珍しくなかった。棄種は群れ(クラン)をつくっているが、そのあいだでしばしば抗争がおこる。強力な群れは他の群れを襲い、狩り集めた者を奴隷兵にして、群れをさらに強力にしようとする。生殖可能な年齢に達した女は、群れ同士の取り引き材料にもなる。それはあくまで外交や経済であり、別の群れへ嫁いだ娘がどんな扱いを受けるかは考慮されない。

 そんな運命から逃れるため、若いサエとシロは生まれ育った群れから逃げだした。放浪のさなか菌叢のなかで孤児を拾い、その子をショータ(ちび)と名づける。ショータには奇妙なところがあった。あまり感情を出さないが、妙なところではしゃいだり、なんとなく自分の感じていることと上手につきあえないふうである。

 異形化した未来の地球を旅するサエ、シロ、ショータの物語は、さながらオールディス『地球の長い午後』の再演だ。しかし、演算世界が舞台となる第二章で、大きく転調する。演算世界は一種のユートピアだ。ひとびとは自分の身体も環境も自由にデザインでき、自分の体験を別の階層に投げかけることで、他人へと伝播できる。言葉によるあやふやなコミュニケーションではなく、魂から魂へと体験がわたるのだ。しかし、そこには死だけがない。体験(コンテンツ)としての死はいくらでも味わえるが、本質的な死というものはない。そもそも「死の本質」という発想が成りたたない。

 物理現実から演算世界への移住は基本的に一方向だが、生体信号の送受信によって、演算世界の人間が物理現実の生物と同化(ネットワーク)することは可能だ。菌叢のなかに棲息するカニに同化し、カニと棄種とが狩り/狩られるさまを体験するのが、ひとつのエンターテインメントとなっている。カニになって棄種を貪り食う感覚は興味深い。カニとして棄種に殺されるのも興味深い。

 そんな生活のなか、クウはどこにもたどりつかない気持ちを抱えていた。演算世界は精彩に満ちていて、美も親愛も苦悩も存在するが、クウはそれをぼんやりと眺めている自分に気づく。クウは演算世界の底、深く潜るほど自分が散逸して魂がしだいに機能しなくなる普遍的無意識へ身を投じ、演算世界の外へ抜ける穴を見つける。

 生存のための闘いをつづけるしかない物理現実と、本質的な死がなく永遠に引き伸ばされた生の演算世界。両者はどのように隔たり、どのように接しうるのか。そこに『棄種たちの冬』のテーマがあらわれる。

 前作『世界の涯ての夏』にはコンテスト審査の段階で、選考委員から次のようなコメントががつけられた。〔「〈涯て〉」の正体は最後までわからないままだし、人類の破滅も漠然と肯定されてしまう〕(東浩紀)。〔人類がこの終わり方ともっと戦って、もっと生き生きと滅ぶところが見たかった〕(小川一水)。〔エンタメなんだから遠慮せずに〈打ち勝て〉と言いたい〕(神林長平)。ぼくは三氏の意見は的外れというのではないにしても、つかいまことが見ていたところとは別な方向を示しているように思えてならない。

 論の当否はともかく、この『棄種たちの冬』はコンテスト選考委員の注文に答える作品にもなっている。本書を読めば、「破滅」「戦う」「打ち勝つ」といった言葉が、それまでと違った意味を帯びてくることはまちがいない。

(牧眞司)