横浜フリューゲルスが消滅した当時、同クラブに在籍していた桜井孝司氏【写真:宇都宮徹壱】

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「歴史を変える」役割を果たした男

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。(取材・文:宇都宮徹壱)

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「今ですか? 地元で子供たちにサッカーを教えつつ、オーダースーツのお店をやっています。もともと興味があったもので。幸か不幸か結婚もしていないので(笑)、自分がやりたいことをやっている感じですけど。あと、北関東のほうで『Jを目指したい』という県1部のチームから監督の依頼を受けていて、どうしようかなと……」

 目の前に座っていたのは、元Jリーガーである。名前は桜井孝司。1977年5月3日生まれで、今年で40になる。現役を退いたのは2001年。現在は故郷の静岡で、サッカースクールを運営しながらスーツの仕立てをしているという。

 多くのサッカーファンにとり、桜井の名前はあまり記憶にないと思われる。トップリーグでの出場数はわずか1試合、J2は8試合。途中、アルゼンチンのクラブに1年間貸し出されていたとはいえ、5年間のプロ生活を考えると、いささか寂しい数字であり、ファンの記憶に残りにくいのも致し方ないだろう。

 しかし彼はピッチ外のところで、ある意味「歴史を変える」重要な役割を果たしている。時に1998年12月のある日(おそらく12日)。この時、桜井は横浜フリューゲルス所属の3年目であった。

 横浜フリューゲルス──。横浜マリノス(当時)との吸収合併によって消滅してから、間もなく20年になろうとしている。当時をリアルタイムで知らない20代のサッカーファンでも、その名はよくご存じのはず。

 確かに、親会社の都合によって2つのクラブがなし崩しに合併されるという事態は、今考えても非常にショッキングな出来事である。しかし、フリューゲルスが「伝説」となるには、もうひとつ重要な要素があった。それは「天皇杯優勝」である。

天皇杯優勝なしに、フリューゲルスは「伝説」たり得たか

 横浜の2つのクラブの合併が新聞報道で明らかになったのは、98年の10月29日。その後、フリューゲルスはリーグ戦4試合、そして3回戦から参戦した天皇杯5試合にすべて勝利するという、神がかりな偉業を達成している。負ければ終わりのトーナメント。しかもこの時のフリューゲルスにとって、終戦はすなわち「クラブ消滅」を意味した。

 しかし、ここで彼らは驚異的な底力を発揮する。準々決勝でジュビロ磐田に2-1、準決勝で鹿島アントラーズに1-0で競り勝って99年の元日・国立での決勝に進出。清水エスパルスとのファイナルも2-1で勝利して、見事な有終の美を飾ることとなった。

 歴史と伝統を誇る天皇杯で頂点を極め、そして栄光と歓喜の中で消滅する。誤解を恐れずに言えば、まさに日本人が好んで止まない「滅びの美学」を体現したことによって、横浜フリューゲルスは「伝説」となった。そして、毎年の天皇杯のたびに当時の映像が流されることで、フリューゲルスの伝説はリアルタイムで知らない世代にも伝えられることとなった。

 だが、しかし、私は思うのである。もしも天皇杯優勝というドラマがなければ、果たしてフリューゲルスは「伝説」たり得たのであろうか、と。

 話を目前の元Jリーガーに戻す。桜井はフリューゲルスの「伝説」に、プレーヤーとしては関与していない。彼はある時はベンチで、ある時はベンチ外から、チームメイトの戦いを見守り、鼓舞し続けた。残念ながら戦力的には貢献したと言い難い。

 だが、それでも前述したとおり、彼はフリューゲルスが「伝説」となるために、決定的な役割を果たしている。その役割とは、どのようなものだったのか。当人の回想に、しばし耳を傾けることにしたい。

横浜Fを選んだ理由。前園と現役ブラジル代表の存在

 出身は静岡の焼津です。小学校6年の時、静学(静岡学園高校)のスカウトが来てくれて、その時に初めて練習を見学させてもらったんです。それまでの自分のサッカーのイメージが覆されましたね。まずテクニックがあって、ボールを持ったら何でもできる。まだJリーグはなかったので、静学でプレーすることが当時の僕の夢でした。念願かなって、静学に入学したのが93年。まさにJリーグ元年でしたね。

 高3の(全国高校サッカー)選手権はよく覚えていますよ。準決勝の相手が東福岡。向こうには、小島宏美、山下芳輝、古賀(正紘)、1年には本山(雅志)がいたのかな。すごいメンバーでしたよね。結局、1?1からPK戦で勝ったんだけど、僕はそこで膝を怪我しちゃったんですよ。

 鹿実(鹿児島実業高校)との決勝、絶対に出たくて痛み止めの座薬を入れたりしたんですけど、監督(井田勝通)からは「お前は将来があるから、絶対に使わない」と言われて。当時、決勝はPK戦がなくて2-2で両校優勝になったんですけど、あまり嬉しくなかったのを覚えています。

(卒業後)フリューゲルス入りを決めた理由ですか? 1コ上の久保山(由清)さんがいたのは大きかったですね。もうひとり、ほとんど試合には出られませんでしたが、DFの大石(信幸)さんも静学の先輩でいました。でも一番大きかったのは、ゾノ(前園真聖)さんの存在。(アトランタ)五輪予選でも活躍していましたし。

 あとブラジル代表が多かったこと。エバイール、サンパイオ、ジーニョという、バリバリの現役セレソンがいましたよね。静学もブラジルのスタイルだったので、そういうのも選んだ理由でした。

 ただ、残念ながら彼らとはあまり一緒に練習はできなかったです。入団前に靭帯をやってしまっていて、リハビリしながら時々練習という感じだったので。

トップでの出場機会は得られず、サテライトで過ごす日々

 そしたら1年目(96年)の夏、いきなり「アルゼンチンに行ってこい」と言われて(笑)。もともとクラブとは「オフシーズンにブラジルに3ヶ月行かせてもらう」という条件だったんですが、なぜかそれがアルゼンチンになって、(クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・)ラ・プラタのU-20で1年間プレーしました。

 試合に出られるまで、3ヶ月くらいかかりましたかねえ。いろいろ悔しい思いもしましたけど、精神的なタフさは身につきましたよ。最後のほうは「日本に帰りたくない」と思えるくらい、馴染んでいました(笑)。

(帰国して)チームに合流したのは、97年の8月でした。自信を胸に秘めて戻ってきたんですけど、トップチームでの出番はなかったですね。当時はまだサテライトリーグがあって、そこでプレーすることが多かったんですけど、結果を出しても引き上げられることはなかった。なぜトップで使われないのか、理由がわからなかったのでイライラすることもありましたね。

 次のシーズン(98年)、監督がオタシリオからレシャックに代わってから、状況も少し変化しました。シーズン前のキャンプは、スペインのセビージャだったんですけど、3-4-3のシステムで僕は3トップの真ん中で使われることが多かった。

 当時、アツさん(三浦淳宏)に可愛がってもらっていて、試合に出られないときはずっと「腐るな」って言われていたんですけど、「今年はお前、行けるな」って話をしていたんですよね。でも、その年のリーグ戦は1試合しか出番はありませんでした。

 それでもレシャックのサッカーは、僕は好きでしたね。(以前、指導していた)バルサと同じで、ワンタッチ、ツータッチでボールをつないでいく。リスクはあったけれど、はまれば楽しい。しかも僕は、基本的に余計な動きをしなくて、ポストプレーに徹しながらバイタルでは好きなようにやればいい。これは楽だなと(笑)。

 ただし、バルサのサッカーは当時の日本人には難しすぎたと思います。それに当時のJのクラブは、3-5-2とか4-4-2とか。2トップが主流でしたしね。

(98年のシーズン途中で解任されたが)レシャックは何かを残したと思いますよ。新人のヤット(遠藤保仁)を抜擢したのは、今にして思うと「さすが」と思いますね。

 まだ18でしたから、線も細かったですし、当たりも弱いし、足も遅い。ただし彼は、1タッチ2タッチでボールをさばけるんですよね。だから決して怒られることはなかった。僕も上手いなあと思っていましたけど、その後日本代表になって、あそこまでキャップ数を伸ばすとは想像できなかったです。僕は同郷の小野伸二のほうがすごいと思っていたんですが。

合併を知らされたとき、最も冷静だったサンパイオ

 合併のニュースを知った時ですか? 新聞報道は10月29日でしたが、前の夜にアツさんから電話で呼び出されたんです。「おい、フリューゲルスがなくなるみたいだぞ」って。

 当時、家が近所だったので、何人か集まりましたね。薩川(了洋)さん、あとナラ(楢崎正剛)さんもいたかな。当時はネットとかなかったんで、たぶんアツさんは新聞記者の人から情報を掴んでいたんだと思います。

 それで次の日、東戸塚の練習場に行ったら、いつもは2〜3人くらいしか記者がいないのに、その日はたくさん人がいて、TVまで来ているんですよ。クラブハウスに届いていた新聞には「フリューゲルス消滅」みたいな記事が一面に出ていて、それでアツさんが言っていたことが本当だったことを知りました。

 とはいえ練習があるんで、トレーニングウェアに着替えていたら、チームマネージャーから「社長(山田恒彦)から話があるので、みんな会議室に集まってくれ」と言われて。で、社長からは「今季限りで横浜フリューゲルスはなくなります」──以上って感じでしたね。

 もちろん、選手は納得できませんでしたよ。「ちゃんと説明しろよ!」って、熱くなっている選手もいました。あの時、冷静に話し合いをしようとしたのは、サンパイオでしたね。もちろん通訳を挟んでですけど、その場を落ち着かせてから、冷静に話し合う空気を作ってくれました。

 ただ、本当に現場サイドは誰もこの話を知らなくて、(レシャックから監督を引き継いだ)ゲルト(・エンゲルス)もそうでした。結局、選手会長だった(前田)浩二さんがクラブとの窓口になってくれましたけど、その日は練習にはならなかったですよ。みんな、心ここにあらずという感じで。無理もないですよ。クラブが今後どうなるのか。来季の移籍先は確保できるのか。何もわからない状態でしたから。

 とりあえず、次のリーグ前は2日後に迫っていました。「試合をボイコットしよう」という意見もありましたが、監督のゲルトは「今はとりあえず、サッカーをやることを考えよう」と言いました。

 サンパイオも「俺たちはサッカー選手なんだから、まずは試合をやるべきだ」と力説していたのはよく覚えています。今にして思うと、サンパイオの存在感はデカかったですね。選手としても、もちろんすごかったけれど、それ以上にプロとして、人間として素晴らしかったと思います。

<後編につづく。文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)

text by 宇都宮徹壱