2016年5月、ネピドー駅の敷地内にあるセミナーハウスでミャンマー国鉄の技術者らに行われた研修の様子


顧客志向への転換

 最大都市ヤンゴンから首都ネピドーを通って古都マンダレーまで国土を南北に縦断する約600キロの幹線鉄道の改修、ヤンゴン市内を結ぶ環状鉄道の改良、そして無償資金協力によるヤンゴン中央駅の鉄道中央監視システムおよび保安機材の供与――。

 総延長約6000キロのネットワークを有しながらも、深刻な老朽化によって遅延や脱線、衝突事故が多発しているこの国の鉄道を再生すべく、日本によって複数の大規模な事業が同時並行的に繰り広げられているミャンマーだが、その本質は、これまでたびたび本誌で紹介してきた通り、資金力を生かした施設の建設や設置のみにあるのではない。

 一見華々しいこれらの協力も、炎天下、駅を一つひとつ回って状況を確認したり、鉄道の利用者に聞き取り調査を行ったり、ミャンマー国鉄(MR)の担当者と何度も協議を重ね、要望や理由を聞き出したりしながら意見の落としどころを探ったりするなど、机の上で図面を引くにとどまらない、地道な作業の積み重ねから成り立っている。

 そして、こうした後姿を見せることによって調査のプロセスや進め方を実地に伝えることにこそ、日本の協力の真髄があるのだ。

 相手に寄り添うという意味で最たるものは、日本の鉄道技術者がミャンマー側の実務者と日々、顔を合わせて直接指導を行う技術協力だ。

 中でも、線路を改良するとともに、定期的に線路を補修し事故を防ぐという意識を植え付けるべく、安全性と定時性を誇る日本の鉄道を支えてきた保線管理の技術を伝えるために2013年夏から約3年間にわたり実施された技術協力は、文字通り日本の「顔」が見える看板プロジェクトだった。

 期間中は、ぎらぎらした日差しが降り注ぐ日も、雨がたたきつける蒸し暑い日も、日本人技術者が毎朝線路に立ち、全土から集められたミャンマー国鉄(MR)の技術者に対して数十人ずつ1カ月間の集中訓練を行った。

 日本の保線現場に長年立ってきた鉄道技術者らが数人呼ばれ、枕木・レールの交換方法やバラストと呼ばれる砂利の敷き方、そのつき固め作業に用いるタイタンパーの扱い方について、手取り足取り指導を行ったこともある。

 このプロジェクトを巣立ったミャンマー人技術者の数は、のべ650人に上る。

 この協力は2016年2月に終了したが、「引き続き日本人から直接技術指導を受けられる場がほしい」というMR側の要望に応える形で、4月より新たな技術協力が始まっている。

 日々、駅の業務に従事しているMRの実務者を対象に、1〜2カ月に1度のペースで数日ずつ開催される「鉄道人材育成講座」だ。

 車両技術や旅客サービス、駅および駅周辺開発など、各分野に詳しい日本の鉄道事業出身者が講師となって首都ネピドーやヤンゴンなどで、集中講義が行われている。

 2013年6月より約2年間、鉄道政策アドバイザーとして国際協力機構(JICA)を通じてMRに派遣された後、現在はこの研修を率いている日本コンサルタンツ(JIC)の東充男さんは、「この国の鉄道はこれまで顧客志向ではなかった」とした上で、「今後、全国規模で鉄道を近代化するには、鉄道組織自体を顧客志向に変えていく必要がある」と話す。

広告収入でサービスを向上

 6月下旬、首都ネピドーの中央駅に近接するセミナーハウスを訪れた。約40台のデスクトップ型パソコンがずらりと並ぶ研修室をはじめ、講師控室や昼食を取るためのスペースなどが一通りそろっている平屋のこぎれいなこの建物は、2014年、住友商事の寄附によって建設された。

 制服姿のMR実務者らが行儀よく座り、メモを取りながら講義を受けている様子は、まるで日本の高校や予備校の授業風景のようだ。

 「ヤンゴン中央駅など一部の駅をのぞけば、ミャンマーではまだ、どこ行きの列車が何時に何番線から出るのか駅員に尋ねなければ分からない駅も多いですが、電光掲示板などで分かりやすく乗客に知らせてあげると親切ですね」

講義で使われた東京駅の周辺地図(=松尾さん撮影)


 「お年寄りや荷物の多い乗客でも乗り降りしやすいように、プラットホームと車両の間の段差をなくしたり、どこからどこまでがいくらか記載した料金表を掲示したりしてはどうでしょう」

 研修員たちを前に、日本とミャンマーの駅の写真をスクリーンに並べて映し出しながら、乗客へのサービス向上という観点から具体的な改善案を提案しているのは、JICの松尾伸之さんだ。

 雨期に入って比較的涼しい時期であるとはいえ、お昼前にもなると、外の気温の上昇に伴い、クーラーが1台しかない研修室の温度も少しずつ上がっていく中、松尾さんの熱弁は続く。

 続いて松尾さんは、東京駅構内の写真を数枚見せながら、「日本では、例えばこのように駅構内にレストランやおしゃれなカフェを誘致し待ち合わせに利用してもらったり、コンサートや絵画展を開いたりしています」、「例えばマンダレー駅の上の階にあるスペースも、こういう形で活用してはどうでしょう」と語りかけた。

 駅に人を集め、長く滞在させるこうした取り組みは、鉄道の利用客をいかに安全かつスムーズにさばくか、という観点から見れば、一見、矛盾する発想のようにも思われる。

 しかし、これは駅の位置付けを「単なる通過点」から「人が集う場所」へと大胆に転換することによって、駅を身近な存在に感じてもらい、鉄道の利用者を増やそうという試みなのだ。

 「では、列車の発着情報以外に、駅が利用者に提供すると喜ばれるのは何の情報か分かりますか?」

 そう尋ねながら、松尾さんが次の写真をクリックすると、スクリーンに日本の駅の改札付近では必ず見掛ける駅周辺の地図の写真が映し出された。

 「地図があれば、列車を降りた後、目的地までどう歩けばいいか分かりやすいですね」と説明する松尾さんの優しい声に、「なるほど」というように何人かがうなずく。

 しかし、松尾さんがこの写真で一番伝えたいことは、ほかにあった。当然のことながら、周辺地図は駅によって異なるため、大量に制作することはできない。各駅に設置したり、開発状況に応じて更新していくためには、かなりのコストがかかるのが現実だ。

 「どうしたらいいと思いますか?」。そう問い掛けながら、先ほどの地図の下の部分を拡大していくと、地図に記載されたレストランやデパートのロゴがずらりと印刷されているのがアップになった。

 食い入るようにスクリーンに見入る研修員たち。そんな彼らに、松尾さんは「企業は地図に広告を出すことで鉄道利用者にアピールできるし、鉄道会社にとっては顧客に喜んでもらえるため、win-winだと言えます」、「広告収入は、鉄道会社にとって、運賃収入と並ぶ重要な収入です。最近はヤンゴン駅でも携帯電話やカップラーメンの看板を見掛けるようになりましたが、ぜひ他の駅でも空きスペースがあれば積極的に広告を掲示し、利用者により良いサービスを提供するための費用を捻出して下さい」と語り掛けた。

日本らしい近代化支援

8月に行われた講義でも熱弁をふるう松尾さん(=JIC提供)


 ミャンマーの大地を走る鉄道を近代化させるべく海を渡り、MR上層部や実務者らと日々顔を合わせ、現地の実情を踏まえつつノウハウや技術を伝える日本人技術者たち。

 その横顔は、まるで幕末から明治初期にかけて欧米諸国から来日し、産官学さまざまな分野で活躍した「お雇い外国人」のようだ。

駅のあるべき姿や乗務員によるサービスについて行われたグループ討議の様子(同上)


 こうした外国人の雇用は、明治維新以降、「富国強兵」、「殖産興業」のスローガンの下で本格化し、1898年までに英国、米国、ドイツ、フランスなどから来日した数千人とも言われる先生や技術者を通じて最先端の科学や技術、知識、諸制度が移入され、日本の近代化が実現したと言われている。

 鉄道分野も例外ではない。新橋〜横浜間の鉄道建設を指揮したエドモンド・モレル(英国人技術者)や、京都〜神戸間の鉄道建設を指揮したリチャード・ヴァイカーズ・ボイル(同)、「機関車の父」との異名を持つリチャード・トレビシック(同)、あるいは北海道の幌内炭鉱につながる幌内鉄道の建設を指揮したジョセフ・U・クローフォード(米国人技術者)――。

 多くのお雇い外国人の技術指導を通じ、鉄道敷設や架橋・築堤に関する技術が日本に伝えられたことによって、国内の鉄道網の整備が急速に進められた。

 しかし、当時の日本が同時期に欧米諸国の支配下に置かれた他の被植民地諸国のようにお雇い外国人に全面的に依存するのではなく、あくまで日本が主体性を持って近代化政策の意思決定を下し、その主導権を譲ることがなかった点は特筆に価する。

 当時の明治政府や関係組織の指導者たちが、大量にお雇い外国人を雇用し、技術を習得しながらも、どのように自主権を確立し、自立していったかについては、大阪産業大学経済学部で教鞭をとる林田治男教授の著書『日本の鉄道草創期明治初期における自主権確立の過程』(ミネルヴァ書房)に詳しい。

 同氏は、鉄道分野のお雇い外国人の位置付けについて、史実を基に丹念に描写。当初は彼らの提案通りに結んでいた雇用契約を、次第に日本側が主導し条件提示するようになったことや、彼らが各組織のトップに就任することはなく、あくまで日本人上司の指揮命令系統に属していたこと、さらにそのポストも少しずつ日本人に代替されていった様子を明らかにしている。

MR次官に対してグループ討議の結果を報告するMR職員(=JIC提供)


 実際、日本政府が当時「雇って」いた外国人の数は、1874〜75年が最も多かったが、その後減少し、1880年ごろには半減。さらにその後も減少し続けたとの推計もある。

 こうして歩み続けた日本は、英国人技術者の指導によって新橋〜横浜間で鉄道が開業されてわずか8年後の1880年に、外国人技師に頼ることなく日本人だけで初めて掘削を進めていた滋賀県と京都府の間の山岳隧道(逢坂山トンネル)を完工。

講義後に現地メディアの取材に答える東さん(=同上)


 さらに1893年には、日本初の国産機関車である860形も鉄道庁神戸工場で完成させている。

 つまり、お雇い外国人は当時の日本にとって、確かに近代化に向けて歩む道しるべとしての役割を担ったものの、あくまで彼らは「日本人による鉄道建設・運営」という一貫した原則を支える助言者ないし脇役だったと言えよう。

 それから約130年後の今日、日本は開発途上国の国々にとって重要な援助国としての地位にある。

 かつてお雇い外国人から技術や知識を学び、急速に近代鉄道のネットワークを広げてきた日本が、いまや「質の高いインフラ輸出」や「官民連携」の高らかな掛け声の下、今度はその技術をミャンマーや多くの国々へ伝えるべく奮闘しているのは、隔世の感がある。

 こうした中、日本のやり方を押し付けたり、自国の権益を優先し、利益の出る区間だけコンセッション契約で整備を進めたりするのではなく、時間がかかっても、ミャンマー人自身が自国の実態に即して自ら考え、行動に移すよう、地道な研修や改善提案などの側面支援に徹する東さんや松尾さん。その姿勢は、まさに日本自身の近代化の経験に根差したものだと言えるのではないか。

 「日本からの支援は重要だが、MR自身がサービスの改善という課題を自覚し、それぞれの部署で取り組みを進めることが一番大切」だと東さんは強調する。かつて歩んだ道のりを、日本はどう先導していくのか。ミャンマー版お雇い外国人たちの奮闘は、まだまだ続く。

(つづく)

筆者:玉懸 光枝