日本サッカーの父”と呼ばれるデットマール・クラマー氏【写真:Getty Images】

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クラマー氏が“日本の弟”岡野俊一郎氏に贈った称賛の言葉

「預言者は故郷に入れられぬ」-デットマール・クラマー

“日本サッカーの父”と呼ばれるデットマール・クラマー氏には、2度の本当に長いインタビューを行った。最初はミュンヘンの心臓外科病院で、2度目はクラマー氏の自宅を訪ねた。3階の蔵書には日本関連のものが目につき、2階の1室はサッカーのビデオで埋まっていた。

「預言者は故郷に入れられぬ」

 ドイツの諺だという。クラマー氏の数時間にも及ぶインタビューテープを聞き直す難行を引き受けてくれた御門大三氏の訳である。

 クラマー氏は言った。

「賢人は国内より外国で、賢い子は家の中より学校で評価される。そんな意味だよ。岡野(俊一郎)や長沼(健)のように優れた指導者は、ドイツにも滅多にいない」

 おそらく時代背景を知らないと、この言葉の価値を理解するのは難しい。

バイエルン率いて欧州制覇も「日本代表の銅獲得に比べれば、ずっと簡単な仕事」

 日本サッカー協会(JFA)が、クラマー氏と特別コーチの契約を結んだのは、今から57年前のことだ。日本は1958年に地元東京で開催されたアジア大会では、グループリーグ最下位(2敗)で敗退していた。6年後には東京五輪が迫っている。どん底の状態で、失敗が許されない大舞台に向けて強化を図るには、もうドメスティックな概念を打破するしかなかった。

 当時のJFA会長の野津譲氏がドイツサッカー連盟(DFB)に協力を仰ぐと、紹介されたのがクラマー氏だった。

 日本はアジアでも最弱レベルだった。一方ドイツは、1954年スイス・ワールドカップで優勝していた。この大会で西ドイツ代表を指揮したのがゼップ・ヘルベルガーだが、クラマーはその後継者の1人と目される気鋭だった。

 つまり、今ならDFBが、ヨアヒム・レーブやユルゲン・クロップあたりを日本に送り込んできたようなものである。

 大ベテランのジャーナリスト賀川浩氏によれば「クラマーは指導の天才だった」という。クラマー氏自身は、日本のメディアが「日本代表に基礎を教え込んだ」と評すのに対し、「私が実践したのはそれだけではない」と反駁していたが、いずれにしても日本代表は急変貌を遂げ、東京五輪でベスト8、メキシコ五輪では銅メダルを獲得するのだ。

 因みにクラマー氏は、ドイツに戻るとバイエルンの監督に就任し、欧州制覇も達成している。だが「それは日本代表の銅メダル獲得に比べれば、ずっと簡単な仕事だった」と述懐している。

クラマー氏が評価する長沼、岡野両氏、「本当の価値を知る人は意外と少ない」

 そのクラマー氏が、銅メダル獲得時の日本代表監督(長沼氏)とコーチ(岡野氏)を、ドイツの諺を引用して最大限に称賛していた。

「日本にはジーコやイビチャ・オシムなど、優秀な選手や指導者が外国からやって来たが、長沼や岡野の本当の価値を知る人は意外と少ないんじゃないかな」

 岡野氏は、クラマー氏の「日本の弟」と呼ばれるほど常に行動を共にしてきた。クラマー氏の薫陶を受けて、大きく遅れていた日本サッカー界の常識を国際基準に引き上げたが、旧い概念から抜け出せなかった当時のベテラン指導者からの風当たりは強かった。

 例えば岡野氏が、ドイツで使用されていた白黒で五角形と六角形が組み合わされたボールの導入を提案すると「サッカーボールは本場イングランドでも一色だ」と否定された。しかしやがて白黒ボールを見れば、誰もがサッカーボールだと認識するようになる。クラマー、岡野両氏は、代表指導と並行して全国各地でクリニックを開催して回ったが、あちこちで指導者たちから喧嘩腰の議論を吹っかけられたという。そんな時、クラマー氏は漏らしていた。

「シュン、オレたちは孤独だな……」

 岡野氏が説いてきた国際基準の常識は、旧態依然とした当時の日本にとっては、先取りの預言だったに違いない。そしてまだ30歳代だった長沼、岡野両氏を日本代表スタッフに強く推したのはクラマー氏だった。彼もまた優れた預言者だったということである。

加部究●文 text by Kiwamu Kabe