『たかが世界の終わり』 (C)Shayne Laverdière, Sons of Manua

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もどかしくすれ違う家族の会話が続いていくこの感覚。これは欧米よりも日本の観客に訴えかけるものが大きいのではないだろうか。27歳にして長編映画6本を監督し、すでにカンヌやヴェネチアといった由緒ある国際映画祭で受賞経験のある若き天才、グザヴィエ・ドラン。カナダのフランス語圏出身の彼が、フランスのスター俳優4人を起用した最新作『たかが世界の終わり』は昨年のカンヌ国際映画祭のグランプリ受賞作だ。

若き天才の名を欲しいままに。映画界の期待を一身に集めるグザヴィエ・ドラン

原作は、1995年に38歳で亡くなったジャン=リュック・ラガルスが89年に発表した戯曲「まさに世界の終わり」だ。

主人公のルイ(ギャスパー・ウリエル)は30代とおぼしき人気作家。どこからか飛行機に乗り、どことも知れぬ故郷へと戻っていくところから映画は始まる。独白のようなナレーションで、彼がもうすぐ死ぬことを家族に伝えるための12年ぶりの帰郷であることがわかる。その帰りを待ちわびる母親(ナタリー・バイ)は着飾り、けばけばしく化粧している。「ゲイは美しいものが好きだから」という彼女なりのおもてなしに呆れて毒づくのは歳の離れたルイの妹・シュザンヌ(レア・セドゥ)だ。幼い頃に出て行ったきり対面していない憧れの兄を理想化している様子がうかがえる。ルイには兄・アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)もいる。はしゃぐ母と妹にイラつき、辛辣な言葉を吐き続ける彼の妻・カトリーヌ(マリオン・コティヤール)は控えめで口下手な女性。ルイとは会ったことがない。始まってすぐ、状況や個々の性格が明確になる鮮やかなオープニングだ。

家に到着したルイを母たちは歓待するが、主役であるはずのルイを置き去りに、すぐに些細なことで家族はいがみ合い始める。誰かが何かを言おうとすると、別の誰かが邪魔するように横からどうでもいい話題を投げかける。誰もが言うべきことは言えずじまいの状態が続き、騒がしくも他愛ないやり取りの裏側で緊張感が高まっていく。全編ほとんどが家族4人の顔のクローズアップだ。周囲で何が起きているのかわからず、普通なら退屈に感じてしまう映像だが、アップに耐える顔を持つ俳優たちが見せる豊かな感情で、飽きさせない。主人公でありながら言葉少なく、言葉で互いを傷つけ合う家族を見つめ続けるルイと、唯一血縁ではないカトリーヌの間に芽生えるかすかな共感の瞬間は素晴らしい。

自らの帰還が、潜在していた家族の本音を引き出していく様を見続けながら、ルイは本来の目的を果たせないままでいる。1つ忘れてはいけないのは、原作が発表されたのが80年代だということだ。まだHIV=AIDS=死と捉えられていた時代であり、当時家族に同性愛者がいた者は、乏しい知識による誤解も含めて誰もがこの病を恐れていたはずだ。それを踏まえると、ルイの突然の帰郷に過剰に反応する家族の態度も納得できる。なぜルイに死期が迫っているのかは劇中で何の説明もないし、それを伝えることすらできずに物語は進んでいく。だが、家族は無意識に最悪を想像し、核心をつかないように話を逸らし続けているかのようだ。映画の設定は現代だが、30年ほど前の社会をふと思い出した。

家族には絆があり、わかりあえるものという理想が社会にはある。その観念に囚われすぎて苦しんでいるのが、この映画に出てくる男たちかもしれない。愛されることと理解されることを混同し、理解されないことに苦悩と不満を募らせている。拳が傷だらけで、シニカルでモラハラな夫/兄であるアントワーヌはその典型だ。反面、女たちは理解したいと願い、それが叶わずとも愛することを選ぶ。愛されたい息子に、「理解できない。でも愛してる」と母親は言う。その言葉をルイはどう受けとめたのか。家族とは? 愛するとは? いま一度、自らに問いかけたくなる。(文:冨永由紀/映画ライター)

『たかが世界の終わり』は2月11日より全国順次公開。

冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。