戦争に翻弄されたロヴレン、世界に渾身の訴え

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『Guardian』など各メディアは、「リヴァプールのクロアチア代表DFデヤン・ロヴレンは、クラブ公式TVのドキュメンタリーで戦争について話した」と報じた。

現ボスニア・ヘルツェゴヴィナのゼニツァで生まれたロヴレン。その後発生した紛争のためにドイツへと逃れたが、そこで市民権を獲得できなかったため、後にクロアチアへと移住した。

そこで選手として台頭することに成功した彼は、リヨン、サウサンプトンでプレーした後、2014年にリヴァプールへとやってきた。

彼は少年時代の戦争、それに翻弄された人生について話し、今世界中に散らばっている難民を支援してほしいと訴えた。

デヤン・ロヴレン

「大きな都市だったから、ゼニツァは攻撃された。しかし、それは小さな村にも起こった。そこでは最も恐ろしいことが起こったんだ…。

人々が残虐に殺害された。叔父の兄弟は、他の人の目の前で刺された。

叔父がその苦しい経験を話すところを見たことがない。しかし、彼の兄弟は確かに殺されたんだ。家族の一員が」
デヤン・ロヴレン

「正直に言って、我々は満たされていた。何の問題もなかったはずだった。全ての隣人と上手くやっていたんだよ。

ムスリムも、セルビア人も、皆が皆お互いに話し合って、人生を楽しんでいたんだ。そして、それから戦争が起こった。

全てを説明することはできるが、その真実は誰も知らない方がいい。あれは起こってしまった。あの夜にすべてが変わった。戦争が起こった。3つの違った文化の間で。

人々は変わってしまった。サイレンの音を覚えているよ。ただ怖かった。爆弾のことが頭から離れなかった。

母が僕を連れて地下室に連れて行ったのをよく覚えている。その警報がどれだけ続くのかわからなかった。

それから、母と叔父、叔母が僕を車に載せた。それからドイツへとたどり着いた。17時間のドライブだった。

我々はすべてを失った。家も、店も、食べ物も。手元にはバッグ一つだけ。そして、『ドイツに行こう』と言った。

幸運だったんだ。僕も家族もラッキーだった。祖父がドイツで働いていたから、その許可があったんだ。

そうでなければ、我々はどこに行っていたかわからない。おそらく、地下に潜るしかなかったはずだ。そうなったらどうなっていたか。

高校で親友だった男――彼の父親が兵士だった。彼が毎日泣いていたことをよく覚えているよ。

『なぜ?』と聞いたら、『父が死んだ』と答えたんだ。そして、それはもしかしたら自分の父親に起こっていたかもしれないんだ」
デヤン・ロヴレン

(ドイツでの7年間は?)

「父と母はもっと長い許可を求めていたが、それは拒否された。ドイツ当局は『戦争が終われば戻れる』と言っていた。だから、父と母は半年ごとに故郷に帰っていた。

これはかなり厳しいものだったよ。ドイツでは未来がなかった。そして、その日が来た。

『2ヶ月で荷物をまとめなさい。そして国に戻りなさい』と言われた。

僕にとっては難しいものだったよ。ドイツに多くの友人がいたからだ。自分の人生はあそこで始まったようなものだったから。

そこにはすべてがあった。幸せだった。小さなクラブでプレーしていたし、そのコーチは父親だった。本当に素晴らしかった。母親も言っていた。『ドイツは我々の二つ目の故郷だ』と。

ドイツは我々を受け入れてくれた。当時、どれくらいの国がボスニアからの難民を歓迎してくれたというのか」

(クロアチアに移ってからは?)

「母はウォルマートで働いた。月給は350ユーロだった。父は家の塗装工をやっていた。お金の点では難しい状況だったよ。母はよく言っていた。

『電気の他、全ての料金を払えない。何もない』と。一週間無一文で過ごしたこともある。

父が僕のスケート靴を取っていったことを覚えているよ。ある日母に尋ねたんだ。『靴はどこ?』と。僕は冬にスケートをするのが好きだったからね。

母は涙を流して答えた。『お父さんが売りに行った…今週はお金がなくて』と。

これは自分の人生でターニングポイントになったといえる。僕は答えた。『もうこれ以上聞きたくないよ』と。

父は350クーナ(現在のレートでは5600円ほど)でそれを売った。僕のスケートは売られた。両親にとっては本当に厳しい時代だった」
デヤン・ロヴレン

「戦争はまるで昨日のことのようだ。話すにはあまりに繊細すぎる物事だ。人々はまだそれを口に出したがらない。悲しいことだからだ。

僕がこの取材を受けると伝えたら、母も言っていたよ。

『戦争について話さないで』と。僕は答えた。『いや、僕はそれを話すつもりだ』と。

彼女は泣いていた。これについて話すのはいつも繊細なことだ。彼女はすべてを覚えているからね。

でも、僕は思っているんだ。次の世代になら、これを話すことがより容易になると。息子や娘にね。

おそらく、彼らはこれらを忘れてしまうだろう。そして前に進んでいく。

子どもたちは、両親の置かれていた状況を、僕が経験したことを理解する日が来るのだろうか?それはわからない。全く違う世界に生きているからだ。

もし娘がおもちゃを欲しがったら、僕は時々言うんだ。『お金はないよ』と。

彼女は僕が言っていることを理解し難いんだ。しかし、簡単な物事など何もない。それを理解する必要があるんだよ。

僕は彼女のために一生懸命働いている。20個のおもちゃなんて必要ではないと理解しなければならない。1〜2個のおもちゃでも、幸せを感じなければいけない。

今難民たちに起こっていることを見ると、僕は自分の過去、家族の過去を思い出す。そして、どのように人々が自分たちの国を追われたかを。

人々が、難民に『自分たちで解決してほしい』と思っているのは理解できる。しかし、彼らは家も持っていない。そして、これは彼らの失敗でもないんだ。

ただ子どもたちを守るために戦っている。彼らは自分たちの家族、そしてその未来が安全なものになる場所を探しているんだ。

僕はそれを経験してきた。そして、多くの家族が今それを通り抜けようとしていることも知っている。

彼らにチャンスを与えて欲しい。難民たちに次の機会を許して欲しいんだ。良い人が誰なのか、そうでない人が誰なのか、それを見極めてくれ」