JFA第9代会長の岡野俊一郎さん【写真:フットボールチャンネル編集部】

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まったく心当たりがなかった突然の電話

 日本サッカー協会の第9代会長で、2002年のワールドカップ日韓共催大会の招致および成功に尽力した岡野俊一郎さんがさる2日、85年間の生涯を閉じた。国際オリンピック委員会(IOC)の委員を22年間も務めるなど、スポーツ界に幅広い人脈をもっていた岡野さんは、横浜F・マリノスの前身である日産自動車サッカー部の設立も「アシスト」していた。半世紀近くも前の秘話を、生前の岡野さんに行った取材をもとに再現した。(取材・文・藤江直人)

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 JR上野駅界隈を窓越しに一望できるビルの最上階。まだ40歳になる前の秘話を、代表取締役を務めていた明治6年創業の和菓子の老舗『岡埜栄泉』の事務所で、岡野俊一郎さんは懐かしそうに振り返ったことがある。

 大会得点王を獲得した不世出の名ストライカー・釜本邦茂を擁した日本代表が、オリンピックが開催されたメキシコシティで快進撃を演じ、3位決定戦で開催国を2‐0で撃破したのが1968年10月24日。いま現在でも唯一となるメダル獲得を契機に、日本サッカー界にブームが訪れた。

 コーチとして長沼健監督を支え、通訳としても日本サッカー界の父、デットマール・クラマーさんと選手たちの橋渡し役を務めた岡野俊一郎さんのもとに、まったく心当たりのない男性から突然の電話がかかってきたのもブームの真っただ中だった。

 聞けば「サッカーのことでちょっとお話を」と、築地の料亭でもてなしたいという。もちろん岡野さんも「失礼ですけれども、どなたですか」と聞き返す。声の主は日産自動車の人事部長と部下の課長で、岡野さんの母校、東京大学の先輩だった。

「築地なんか呼ばれたことがなかったからね。だから喜んで行っちゃったよ」

 果たして、サッカーの話とは日産自動車がサッカー部を創設して、ゆくゆくは日本リーグに参戦したいというものだった。すでに全国レベルで活躍していた野球部に加えて、従業員が応援したくなるようなスポーツを、という理由で銅メダル獲得に沸いていたサッカーに白羽の矢が立てられたわけだ。

ノウハウがない日産自動車に選手を紹介

 しかし、サッカーに関するノウハウがない日産自動車としては、創部へ向けてどのように動いていいかがわからない。人事部長も課長も、サッカー界にはいっさいつてをもっていなかった。相談をもちかけられた岡野さんは、こんなアドバイスを送ったと明かしている。

「ある程度のレベルをもつ選手で、大卒かつ人柄のいい選手を採用しなさいと言ったんだ。新しくできるサッカー部の中心になれるし、人柄がよければ周囲の社員から『この人たちがやっているサッカー部ならば応援しよう』という雰囲気を出せるからね」

 先方も得心できた様子だった。ただ、大卒で人柄がよく、肝心のサッカーも上手い選手がすぐに思い浮かぶはずがない。「どなたかいらっしゃいますか」と聞かれた岡野さんは、ユース代表監督時代の教え子で、浦和市立高校(現さいたま市立浦和高校)から立教大学へ進んでいた鈴木保を紹介する。

「ちょうど鈴木保が立教を卒業する年だったかな。『彼を推薦するので、ぜひ採用してください』とお願いして、日産自動車で採ってもらったんだ」

 後に日本女子代表監督として、チームを2度の女子世界選手権(現女子ワールドカップ)と1996年のアトランタ五輪出場に導く鈴木が入社したのは1970年度。鶴見工場の同好会という形でスタートしたサッカー部は、1972年度に参戦した神奈川県リーグ2部から本格的なスタートを切る。

日本サッカー界初となるプロ監督の誕生

 翌1973年度には同1部に昇格して即優勝するなど、順調な滑り出しを見せたものつかの間、関東社会人大会準々決勝で電電関東(現大宮アルディージャ)に苦杯をなめる。関東社会人リーグへの昇格を断たれた直後、くだんの人事部長から再び岡野さんのもとへ電話が入った。

「今度は『いいコーチを探したい』と言われたんだよね」

 日産自動車の初代監督には県立浦和高校で全国優勝を経験し、東京大学サッカー部では
キャプテンを務めた岡野さんの後輩、安達二郎が就いていた。しかし、社業が忙しかったこともあって、日産自動車側は新たな監督を探さざるをえない状況に直面していた。

「安達はサッカーとは関係なしに日産自動車に入社していたからね。それで相談されたんだけど、指導者に関しては僕よりも平木隆三のほうがよく知っていた。なので『平木という人間を紹介しますから、会ってください』と言ったんだよ」

 1964年の東京五輪でキャプテンを務め、その後はメキシコ五輪をはじめとする代表チームでコーチを歴任。Jリーグ発足後は名古屋グランパスエイトの初代監督を務める平木は、ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)でコーチを務め、日本リーグで初優勝した1972年度をもって退社していた加茂周を推薦する。

 テストドライバーが1年契約の嘱託として仕事をしていた実績もあって、日産自動車には「プロ」という概念に対して寛容な土壌があった。後に日本代表監督を務める加茂は、1974年から日本サッカー界初のプロ監督として、日産自動車を強化していくことになる。

加茂監督就任にまつわる後日談。3時間も聞かされた愚痴

 加茂のもとでは、すでに現役を退いていた鈴木がコーチに就任してプロの指導を学んでいく。もっとも、これにはちょっとした後日談がある。

 話は古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)、日立製作所(現柏レイソル)、三菱重工(現浦和レッズ)、東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島)をはじめとする「オリジナル8」が集い、Jリーグの前身となる日本サッカーリーグが産声をあげた1965年度にさかのぼる。

 関西から参戦したヤンマーディーゼルには、長沼や平木の母校でもある関西学院大学から入社したばかりの加茂がいた。岡野さんは懐かしそうに振り返ったものだ。

「ヤンマーディーゼルの産みの親である山岡浩二郎さんにお願いして、加茂を採ってもらったんだ。その加茂を日産自動車がプロ監督として迎え入れた。選手の前に指導者のプロが日本サッカー界に生まれたわけだけど、そうしたら山岡さんが怒っちゃってね。平木に頼まれて大阪までいって、山岡さんの愚痴を3時間も聞かされて。本当に参っちゃったよ」

 ヤンマーディーゼルとしては、実質的なプロの指導者としての道を歩ませていた加茂に、ゆくゆくは指揮を執らせたいと考えていたのかもしれない。果たして、加茂のもとで急成長を遂げた日産自動車は関東社会人リーグの壁を突破して、1977年度に日本リーグ2部に昇格する。

最初から名門だったのではなく着実に歩を進めてきた

 そして、翌1978年で2位に入ると、富士通サッカー部(現川崎フロンターレ)との入れ替え戦を連勝で制し、1979年度からの日本リーグ1部昇格を決める。祝勝会に招待された岡野さんは、壇上でこんなスピーチをしたと苦笑いしながら明かしてくれたことがある。

「いまの日本の自動車会社で、スポーツカーを作っているのは日産しかありません。だから、スピードを出すのは得意でしょう。そのおかげもあって、日本リーグ1部へ昇格しました。ついては2部に速く落ちないように頑張ってくださいと言ったら、2年目で落ちちゃったんだよね」

 もっとも、このころから日産自動車は、サッカー部強化にさらに本腰を入れる。金田喜稔(中央)、木村和司(明治)、水沼貴史(法政)をはじめとする大卒の日本代表クラスが続々と入社。1986年には木村がスペシャル・ライセンス・プレーヤーとなり、国産の第1号プロ選手となった。

 1987年にはブラジル代表でキャプテンを務めたDFジョゼ・オスカー・ベルナルディを獲得。超大物の加入は守備面だけでなく日本人選手のプロ意識をも向上させて、1988年度には加茂のもとで日本リーグ、天皇杯、JSLカップの国内三冠を史上初めて独占した。岡野さんはこうもつけ加えている。

「いま現在の横浜F・マリノスを見れば、前身の日産自動車時代からすごいチームのように感じられるけれども、実は違うんですよ。クラマーの提案で日本リーグが創設されて、その後に低迷期はあったけれども、そのなかでチームの基盤が少しずつできあがってきた。そこへもってまず指導者のプロ化が実現して、選手のプロ化という流れを経てJリーグにつながったわけです」

 東洋工業蹴球部の4連覇で幕を開けた日本リーグは、やがて古河電工、日立製作所、三菱重工の「丸の内御三家」が中心をなす時代に移る。アマチュア全盛の勢力図のなかへ、1980年代に入って読売クラブ(現東京ヴェルディ)とともに敢然と割り込み、悲願のプロ時代到来への先導役を果たした日産自動車が産声をあげた背景には、各方面に幅広い人脈をもっていた岡野さんの粋なアシストがあった。(文中一部敬称略)

(取材・文:藤江直人)

text by 藤江直人