こんなに晴れやかな表情の竹澤健介を見たのは初めてかもしれない。所属する住友電工の本社(東京)を訪ねると、スーツ姿の竹澤が「ご無沙汰しております」と笑顔で現れた。

 まだ30歳になったばかりの彼が、今シーズン限りでの「現役引退」を発表したのは1月16日。箱根駅伝をはじめ、世界でも戦った元早稲田大のエースの引退は、多くの陸上ファンに衝撃を与えた。


3年連続で区間賞を獲得するなど、箱根駅伝で名を馳せた竹澤健介 photo by AFLO「引退理由ですか? 左足のケガですね。痛みに耐えて現役の後半を過ごしてきたんですけど、昨年11月の関西実業団駅伝の下り坂で、『これは厳しいな』と思ったんです。脳がダメだと認識してしまったのか、それから気持ちの面でも切れてしまいました」

 竹澤は、関西実業団駅伝の3区を区間2位でまとめたものの、チームは4位に終わり、今年のニューイヤー駅伝の出場を次点で逃している。そのレース中に自身の体の状態に絶望し、大学時代の恩師でもある渡辺康幸監督に素直な気持ちを打ち明けた。

「できれば、引退レースをしたかったですね。1月の都道府県駅伝を最後にという気持ちもあったんですけど、出場できる状態ではありませんでした。本音を言うと、競技力が落ちてからやめたかったので、ケガが原因で引退するのはすごく悔しいです」

 早稲田大時代、箱根駅伝で3年連続の区間賞を獲得し、大阪世界陸上選手権(1万m)、北京五輪(5000m、1万m)にも出場。竹澤は「箱根から世界へ」を体現したランナーだった。大学3年時には1万mで日本人学生最高記録(当時)の27分45秒59を、5000mで日本学生記録の13分19秒00をマークしている。しかし、その頃から「崩壊」は少しずつ始まっていた。

 近年、竹澤が苦しんでいたのは、「左足のグラつき」だ。傍目からは異変が見えづらいその症状を、周囲に理解してもらうのは「簡単じゃない」と語る。

「左足がどこにいくのかわからないんです。自分の足なんですけど、着地したい場所に着くことができないという症状が、4年ほど前から続いていました。痛みに関しては受け入れていたんですけど、足の不安定さはどうすることもできなくて。突然ガクッと内側に落ちてしまうこともありました。シューズ内にインソールを入れて、足首をテーピングで補強して、それから体幹を鍛えるなど、あきらめずにいろいろと試したんですけど……」

 しかし、左足の症状は改善されず、それどころか、ジョギングもまともにできなくなるほどに悪化していく。

「着地して地面を蹴った足がどこにいくのかもわからないので、練習中に止まってしまうこともありました。それに、ずっと足に意識がいっているので、集中力がもたないんですよ。30分、40分くらい走るだけで、脳みそが疲れちゃうんです」

 左足のケガとの戦いは日常生活にまで及んだ。朝起きて、足を1歩踏み出す際にも、左足に神経を使わねばならず、最終目標ともいうべき「マラソン」のスタートラインに立つことすらできなかった。

 学生時代のキャリアと年齢を考えると、29歳で迎えた昨年のリオ五輪が最大のチャンスだったのかもしれない。しかし、悲鳴をあげる体がそれを遠ざけ、ついにはシューズを脱ぐことになった。

「やっぱりマラソンに出てみたかったですね。でも、体の状態は長い距離を走ることさえできない次元にありました。マラソンを目指してトレーニングしたことは一度もありません。

 学生時代は、若さと勢いで走ることができたと思うんです。でも、土台が固まっていない状態で積み上げていこうとしても、絶対に崩れます。いま振り返ると、理想的な走りができていたのは大学3年生の前半でした。そこから左アキレス腱を痛めて、4年生ぐらいからバランスが崩れ始めていたんだと思います。その後も、足底を痛めるなど、いろんな部位を故障しました。少しずつ、少しずつ、いろんなところが狂っていき、最後に大きなズレになってしまったのかなと感じています」

 ケガの影響で爆発力は影を潜めたものの、竹澤は大学卒業後もコンスタントに成績を残している。エスビー食品に入社して1年目に日本選手権5000mで2位に入り、翌年には同1万mで初優勝を飾っている。所属を住友電工に移した後も、本格強化を始めたばかりのチームを3年連続でニューイヤー駅伝に導くなど、中心選手として活躍。昨年の大会では、1区を区間5位と好走した。

 体の状態を考えれば、「最後までよく走った」と思うのは筆者だけではないだろう。だが、さらなる高みを目指していた竹澤は、自身のピーク時代を振り返りながら「その先」についてこう語った。

「僕は早稲田に対する憧れが強かったので、『早稲田の竹澤』と言われるのは素直にうれしかったです。プレッシャーは特にありませんでした。それよりも『いかに走るのか』といった競技のことに頭を使っていましたね。箱根駅伝は独特の面白さがありましたし、それが将来につながるのが一番いい。僕はつなげられなかったですけど、強化の方法によっては箱根を走った選手が世界で活躍することは可能だと思います」
 
 強化の参考例として、竹澤はアメリカのスター選手の名を挙げる。大学3年生がピークだった竹澤としのぎを削った、ナイキ・オレゴン・プロジェクトに所属するゲーレン・ラップだ。同じ1986年生まれのふたりは、2007年の大阪陸上世界選手権1万mに出場。ラップが11位、竹澤が12位だった。その後、ラップはロンドン五輪の1万mで銀メダル、リオ五輪のマラソンで銅メダルを獲得している。

「ラップ選手は2007年の米国・カージナル招待1万mでも、僕のすぐ前にいた選手です。当時は、あまり差があるとは感じていませんでした。でも、彼が世界で活躍している姿を見ると、やっぱりやり方なんだなと思います。

 僕のように目の前のレースに合わせていくのではなく、長いスパンで考えて、綿密にトレーニングを積んでいったんじゃないでしょうか。彼は故障をほとんどしていないですし、土台をしっかり作った上で強化を行なったから、あれだけ高いところにたどり着いたんだと思います。決して駅伝が悪いというわけではなく、僕には先を見る意識が足らなかったんです。当時は若かったこともあって、目先のレースに飛びついてしまいましたね」


時折、笑顔を見せながら引退について語る竹澤 photo by Sportiva 不完全燃焼で現役生活を終えることになった竹澤。今後は住友電工の社員として業務に専念するというが、新たな「夢」も描いている。

「将来的には陸上にたずさわり、広い視野を持った指導者になりたいです。僕は中途半端に終わってしまったので、まだまだやりたいことはたくさんありました。アスリートは状態のいいときの時間がとても短いですし、僕自身が『もう少しうまくやりたかった』という部分も指導に活かしたい。そして、竹澤健介よりもいい選手を育てたいです」

 筆者は大学時代から竹澤を何度も取材してきた。思い返すと、その顔はいつも険しく、多くを語ることはなかった。それが、今回は柔和な表情でさまざまなことを話してくれた。

「現役の時は、どこかで(キャラを)作っていたところがありました。そうしていないと自分は心が弱いので負けてしまうんです。正直、取材はあまり受けたくありませんでした。自分の状態を知られるのが嫌でしたし、走る前にニコニコしていたら僕は勝てない選手だったと思います。だから、今ならたくさん話せますよ。明日、競技者に戻ったら、また静かになると思いますけど(笑)」

 現役を離れ、饒舌になった竹澤が陸上界に戻ってくる日を、今から楽しみに待ちたい。

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