短期連載・今こそ「ジュビロ磐田のN-BOX」を考える(4)

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名波を襲ったアクシデント

 なぜ、鹿島との大一番で磐田のN-BOXは輝いたのか――。

 まさに大一番だったからではないか、と分析するのは福西崇史だ。

「相手が鹿島だったからモチベーションも集中力も高かったし、運動量もあった。試合をやっていて楽しかったし、確信を深めていったんじゃないかな」


鹿島戦の後も、連勝記録を伸ばしていた磐田だが...... photo by Kyodo news 宿敵から収めた快勝は、選手たちの自信を膨らませ、N-BOXを一層スムーズに機能させた。鹿島戦を経て守備における不安は取り除かれ、オートマティズムはさらに磨かれていく。

 その後、セレッソ大阪、名古屋グランパス、浦和レッズ、ガンバ大阪を下した磐田は、開幕からの連勝をJリーグ記録タイの8に伸ばし、2位の清水エスパルスに勝ち点差8をつけて早くも独走態勢に入った。鈴木秀人が感慨深げに振り返る。

「鹿島に勝ったあたりから数試合は、やっていて本当に楽しかったですね」

 だが、そのあと、声のトーンが少し落ちた。

「名波さんがいなくなるまでは……」

 完成の域に近づいていたN-BOXの命運を揺るがすアクシデントが起きたのは、ガンバ大阪戦の終盤だった。

 ドリブルで磐田陣内に侵入してきた遠藤保仁のマークに、すかさず名波浩がつく。急ターンでかわそうとする遠藤に、名波が対応しようとした瞬間――。

「右の膝がパキーンってなって、激痛が走ってね。でも、すでに3人交代していたし、2-0で勝っていたから、最後までプレーしたんだ。試合後、アイシングしてミックスゾーンを抜けてバスに乗るまではよかったんだけど、寮まで5分から10分、バスを降りるときには歩けなかった。車のアクセルも踏めなくて、チームメイトに運転してもらったのを覚えている」

 診断結果は、右膝半月板損傷――。重傷だった。

 名波を失った磐田は、N-BOXをいったん封印せざるを得なくなった。N-BOXは名波なくしては成り立たないシステムだからだ。実際、名波離脱後の磐田は、藤田俊哉をトップ下に置く、従来の3-5-2に戻して戦っている。

 コーチを務めていた柳下は、名波と藤田という、ふたりの稀代のミッドフィールダーについて、こう評した。

「俊哉は自分のアイデアをどんどん出していくタイプで、飛び出して点も取れるからアタッカー色が強い。名波も同じようにアイデアが豊富なんだけど、周りに合わせることも得意。それに後ろにも気を配ることができるから、前後の距離感がすごくいい。まさにチームのヘソ。ふたりは得意なプレーゾーンが決定的に違うんです」

 名波を欠いた磐田は、エコパスタジアムのこけら落としとなった第9節の清水戦で押し気味に試合を進めながら、延長戦で凡ミスを犯して決勝ゴールを与えてしまう。連勝は8でストップした。
                   
 名波離脱と初黒星のショックに追い打ちをかけるように、選手たちのモチベーションを大きくダウンさせる出来事が起きたのは、それから1週間後のことだった。

試合日に飛び込んできた衝撃の一報

 その連絡を受けたとき、監督の鈴木政一は、自分の口から選手に伝えることはできないと思った。

「宿泊先のホテルに、強化部長から電話があったんです、クラブ世界選手権が延期になりそうだと。とてもじゃないけど、僕からは言えないと。だから、こっちに来て、選手に直接説明してくださいと頼みました」

 2001年7月28日にスペインで開幕するはずだった第2回クラブ世界選手権が2ヵ月前に突然、延期(のちに中止)となる異常事態は、いったいなぜ起きたのか――。

 原因は、FIFA(国際サッカー連盟)がワールドカップに関するマーケティング事業を委託していたスポーツマーケティング企業「ISL」の経営破綻にあった。

 5月18日にスイスのFIFA本部で開かれた臨時委員会で最終決断が下され、それから数時間が経った日本時間の18日深夜、FIFAが公式ホームページで正式に延期を発表したのである。

 5月19日のコンサドーレ札幌戦に備えて浜松市内のホテルに宿泊していた磐田の選手たちが延期を知ったのは、まさに試合当日の朝だった。

 鈴木秀人は、誰から告げられたのかは覚えていないが、ホテルでのミーティングの際に告げられたことは、はっきりと記憶していた。

「ウソでしょ? って、相当ヘコんだ覚えがあります。僕は代表にそんなに入ってなかったから、レアルのような海外の強豪と真剣勝負がしてみたかったし、スペインにも行ってみたかった。だから、かなりショックでした」


大きなショックを受けながら、チームの勝利に貢献し続けた福西 photo by AFLO 福西の言葉にも、無念さがにじむ。

「途中から話が全然入ってこなかった。マサくん(鈴木監督)もたしか、ミーティングを途中でやめたんじゃなかったかな。バスの中でも、ロッカールームでも静かで、試合前から負けたチームのような雰囲気だった。それでも試合は待ってくれないから、とりあえずピッチに立ってプレーした、という感じだったと思います」

 それでも磐田は勝った。勝ててしまうのが当時の磐田だった。

 札幌戦から再び連勝街道を歩み始めた磐田は7月7日、ファーストステージ13節の横浜F・マリノス戦で、勝てばステージ優勝という段階までこぎつけた。この試合から名波が復帰したが、5月6日に負傷して以来、実に2ヵ月ぶりの出場だった。

 1-1のまま延長戦へともつれ込んだゲームは、100分に高原直泰が右足でボレーシュートをたたき込み、劇的なフィナーレを迎える。こうしてステージ制覇を遂げた磐田は、残り2試合も1勝1分で終え、わずか1敗でファーストステージを駆け抜けた。

 だが、N-BOXは封印されたままだった。右膝が万全ではない名波の守備の負担を軽減させるため、名波をトップ下に置く従来の3-5-2が採用されたからだ。

 そして、その封印がその後、解かれることはなかった。

 9月末、復帰後、初のフル出場となった鹿島とのナビスコカップ準決勝の第1戦を終えた名波は、日本代表のヨーロッパ遠征に帯同した。その際に、パリでフィリップ・トルシエ監督から紹介された膝の権威である医師の診察を受けると、思っていた以上に重傷だったことが判明し、ドクターストップを告げられたのだ。

「5月にケガしたあと、5月末にあったアジアクラブ選手権の決勝に間に合うんじゃないかっていうことで、チームに帯同して(開催地の)韓国まで行ったんだけど、結局、腫れが引かなくてやめておくことになった。でも、そこから練習のペースを下げることなくファーストステージに間に合ってしまった。たぶん、2ヵ月ぐらい無理をしたと思う」

 再手術が決まった名波の復帰は、翌シーズンまで持ち越されることになる。

「ファーストステージの最後のほうで復帰したときから、膝と相談しながらのプレーだったから、N-BOXは実際には8試合ぐらいしかやってないんだよね。でも、鹿島戦やガンバ戦は、ほぼ完勝だった」

 レアル・マドリードと戦うために編み出された新戦術・新システムは、クラブ世界選手権の消滅と名波の長期離脱によって、終焉を迎えたのである。

(つづく)

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