手に持つのは日本有線大賞ベストヒット賞のトロフィー

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 かつて相撲界では、人気の力士はたいていレコードを出していた。その代表格が、1977年にリリースした『そんな女のひとりごと』が130万枚の売り上げを記録した増位山太志郎だ。角界屈指の歌い手が、当時を振り返る。

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 子供の頃はコーラス部に入っていて、小学5年生の時にテレビ番組に出たこともあった。力士になる前は歌手になるのが夢だったね。

 昔は福祉相撲やテレビ番組で力士が歌を披露する場面が結構あったし、地方巡業する際に「力士が歌ったり、野球をしたりするなら、興行を受けましょう」という契約条件もあったんだよね。取組以外の部分でも、お客さんを呼ぼうとする風習があった。

 まだ前頭の頃、部屋の千秋楽パーティーで歌っていたら、小林旭さんの歌を書いたこともある文芸評論家の小島貞二さんが「そんなに好きならレコード出す?」といってくれたから、「出したいです」と即答したね。それで、1972年に小島さん作詞の『いろは恋唄』でデビューした。嬉しかったね。

 歌は相撲にも活きたよ。ウチの親方は趣味を持ったほうが人間的にも幅が出るという方針だったし、歌っている時は相撲のことを考えないで済む。肩の力が抜けて、いい気分転換になった。

 2枚目の『そんな夕子にほれました』は60万枚くらい売れたんだよね。それなのにレコード会社が潰れたから、テイチクレコードに移籍して、その時に初めて印税契約をした。そこからまた65万枚くらい売れた。キャンペーンもしてないのに、なんであんなに売れたのかよくわからないよ。

 1977年の『そんな女のひとりごと』もミリオンヒット。翌年に日本有線大賞にノミネートされたんだよ。他にはピンク・レディーや山口百恵がいたね。放送日はちょうど膵臓炎で入院中だったから、テレビ局に「中継車を出すので、病院の外で歌ってください」といわれていてね。

 でも、中継車が近くで起こった事件に回されて、歌えなくなった。結局、大賞は沢田研二の『ダーリング』に決まった。ベストヒット賞をもらえたけど、事件がなかったら大賞を獲れていたかもしれないね。

 NHKの紅白歌合戦からもオファーがあったようだけど、相撲協会が断わったみたい。20年くらい後になって聞いた話だけどね。まあ、相撲あっての歌だから、当然だと思ったよ。

 印税で部屋の力士や関係者50人くらいをハワイ旅行に連れて行ったね。幹部にはビジネスクラスを用意したな。今考えたら、失敗したなと思うけど(笑い)。あとは、ちゃんこ店を出す資金にしたよ。一時、相撲協会が親方や力士のレコード発売を禁止にしたから新譜を出せなくなったけど、定年退職して今また歌を出すようになった。その時は、妻が泣いて喜んでくれたよ。

●ますいやま・たいしろう/1948年生まれ、東京都出身。大関・増位山大志郎の長男。父の反対を押し切って相撲界入りし、1967年初土俵、1980年大関昇進。現役時代の1972年に歌手デビュー。

■撮影/藤岡雅樹 取材・文/岡野誠

※週刊ポスト2017年2月10日号