三菱地所会長 木村惠司

写真拡大

■開発の進め方で社長に何度も指摘

1987年末から88年初めにかけて、就任1年目の社長に、満40歳の身で何度も「直言」した。「三菱村」とも呼ばれる東京・丸の内の第三次開発の構想を、新社長が発表しようと、準備を急がせていた。再開発そのものは、当然だ。むしろ、遅れ気味だったから、打ち出すのはいい。ただ、その進め方に、疑問を抱いていた。

まだバブル経済は膨張していなかったが、外資系企業のオフィス需要が増え、2年前から丸の内のビル街は手狭になっていた。テナントから使用面積の増大を求められても、1000%が上限の容積率に余裕はなく、増床はできずにいた。しかも、ビル群はかなり古くなり、港区などの新しいビルへのテナント流出が始まっていた。

そうした状況を一気に解決しようと、構想は、規制緩和で容積率の上限が2000%になることを前提にしていた。だが、それには地元の千代田区、東京都、建設省(現・国土交通省)の同意が不可欠だ。そうしたところへの打診や事前説明もないまま、発表してしまうのはまずい、と確信した。

当時は総務部にいて、社長のところにいく用事があれば「容積率の引き上げは影響が大きいので、役所に打診して、感触を確かめたほうがいいのではないですか」と言ってみた。だが、社長は「いや、単なる提案だからいいのだ」と言うだけ。厳しい人で、報告にいって怖い目に遭った部長も多い。でも、「直言」に不満げになることもあったが、聞いてくれた。

88年1月、その丸の内再開発計画が発表された。だが、記者たちの質問は「容積率2000%の実現性」に集まる。「東京マンハッタン計画」ともされた新ビル街の模型にも、墓石が並んだようだと「ツームストーン(墓石)計画」との陰口が出た。準備チームはしょげて「メディアはわかってくれない」と愚痴る。その後、チームの多くが交代し、行政当局との関係構築が図られる。結局、代表的な丸ビルの建て替えが決まったのは、7年後だった。

驚いたのは、それだけ「直言」をしたのに、数カ月後に社長秘書へ異動した。意外だったし、社長秘書には「お世話係」のイメージしかなかったから、社長に「私には無理です」と言った。すると、「きみに、そんな役は期待していない。若い立場での考えを聞かせてくれ」と返ってきた。

トップに「お言葉ですが」と苦言を呈し、左遷になった人は世に多い。トップに立つ人でも、心が狭いことがある。秘書として仕えた社長は、トップダウン型の厳しい人なのに、なぜ「直言」に怒らなかったのか。中学校で担任だった先生は、温かい人で、大事に育ててくれた。何かそういうところを、両親からもらっているのかもしれないが、それだけではないはずだ。振り返れば、自分のためにではなく、ただ会社のことを真剣に考えた末の「直言」だったから、容認してくれたのだろう。

「直言而無諱」(直言して諱むこと無し)──率直に言ってはばからないとの意味で、中国の晏子の言行録『晏子春秋』にある言葉だ。自分の信じるところを、相手がどう受け取るかではなく、きちんと言う大切さを説き、その前には「行己而無私」(己に行いて私無し)ともある。会社にとって重要な丸の内再開発の運び方に対し、社長であっても直言する木村流は、この教えと重なる。

1947年2月、埼玉県大宮市(現・さいたま市)で生まれる。父は国鉄(現・JR)で車両の各部分をトントンと叩き、その音で良し悪しを判断した検査員。両親と兄2人の5人家族で、官舎は10畳1間と台所。玄関もトイレも共同で、風呂はない。そんな経験から、家への憧れが滞留し、不動産会社に就職したのかもしれない。

小学校4年のときに同県浦和市へ転居し、県立浦和高校から東大文科II類へ進み、経済学部を卒業。前年に政府が新全国総合開発計画を決定し、社会資本の充実には都市開発も必要だと指摘され、「民間ディベロッパーの出番」と言われていた。面白そうだと思い、就職先に三菱地所を選ぶ。高度成長期に始まった丸の内の第二次開発が、佳境を迎えていた。

■個々の力を高め組織は風通しよく

70年4月に入社、調査室に配属される。その後、調査室が企画部に衣替えされ、労組の委員長に選ばれるまで計10年いたが、役員向け資料の作成で経済の動きや市況などを分析して書くうちに、大学紛争で勉強できなかったマクロ経済を学ぶ。この間に1年、社内の留学制度で米国へいき、首都ワシントンの社会人向けの夜間ビジネススクールに通う。昼も英語を習い、先生の女性が言語学を専攻していて、日本語に興味を示したので、互いに母国語を教え合う。

40代は総務部で迎え、すぐに冒頭のように秘書部へ異動。そこで40代を終えた後、98年1月に企画部長に就く。東京駅丸の内北口の旧国鉄本社跡地の入札が、1カ月後に控えていた。普通はビル事業部の担当だが、日本生命と組んで応札することになったため、他社との交渉事を担当する企画部が受け持った。そして、入札にかかる土地は、三菱グループにとって、外せない歴史があった。

1889(明治22)年、新橋─上野間に鉄道を敷き、その中間に中央停車場(現・東京駅)を設けることが決まったのを受け、翌年に陸軍が使っていた丸の内地区が三菱グループの前身の三菱社に払い下げられた。その一部が鉄道会社側に渡り、そのなかに国鉄本社になる土地もあった。そうした経緯もあり、他社に落札されたくはない。再開発したら先行きの不動産市況や金利で収益はどうなるか、分析を重ね、ここまでなら買い取っても中期的に採算に乗る、という入札価格をはじき出す。

応札額は3008億円で、3つの企業や企業連合をかなり離して落札した。1坪当たりは8272万円。1万2000平方メートル(3636坪)のうち、日本生命が4分の3を得て、三菱地所は丸の内オアゾなどになる4分の1を手にした。北側にあったビルの底地権と合わせ、駅の丸の内口正面の丸ビル、新丸ビルとともに、駅前広場を囲む街づくりへと踏み出し、停滞が懸念されていた第三次開発が大きく動き出す。

金融危機のまっただ中、オフィスの賃料も下がっていて、首脳陣には「高過ぎないか」との声もあった。でも、丸の内の第三次開発にはその土地が重要なこと、とくに大手町との地上・地下の導線を確保するには不可欠な点を説き、頷いてもらう。いま、多くの人が導線の便利さを感じている。やはり、「直言而無諱」は大切だ。

2005年6月に社長に就任。最初に社員に求めたのは、インテグリティー、オープンマインド、チームワークの3つ。インテグリティーは、就任前に大阪で土壌汚染問題が出て、法令違反ではなかったが、いままで以上に社会と誠実に向き合おう、との要請だ。オープンマインドは情報を共有し、問題が起きたときにはみんなで語り合おう、との呼びかけ。チームワークは、個々の力を高めて「1たす1」が2ではなく、3や4になる組織にしたい、との思いだ。

すべてに「直言而無諱」は欠かせない。風通しのいい組織でなければ、どれも前には進まない。

----------

三菱地所会長 木村惠司(きむら・けいじ)
1947年、埼玉県生まれ。70年東京大学経済学部卒業、三菱地所入社。96年秘書部長、2000年取締役経営企画部長、03年常務執行役員、04年専務執行役員、05年取締役社長。11年より現職。

----------

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)