点滴を打ちながら走ったら青春映画みたいになった【こだま連載】

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【こだまの「誰も知らない思い出」 その7】

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 自身の“愛と堕落の半生”を、ユーモアを交えて綴った『夫のちんぽが入らない』(1月18日発売)が早くも話題の主婦こだま。

 彼女は閉鎖的な集落に生まれ、昔から人付き合いが苦手で友人もいない。赤面症がひどく、人とうまく話せなかったこだまはその日の出来事をノートに書いて満足するようになった。今はその延長でブログを続けている。

 家族、同級生、教員時代の教え子、相部屋の患者。当連載は、こだまが、うまくいかないことだらけの中で出会った、誰も知らない人たちについての記録である。
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◆マユミさんと見た花火

 ぽつん、ぽつんと規則正しく、ゆっくりと、抗生剤が落下してゆく。真夏の病室に、おばあさんの湿布のにおいと昼食の煮物の残り香が、むんと立ち込めている。私は近所の住民が放つレース鳩の旋回を目で追ったり、向かいのベッドに入ったばかりのマユミさんをぼんやり眺めたりしながら、点滴の袋がぺちゃんこになるのを待った。マユミさんは橙色の大きなタオルケットをピクニックみたいにふわっと広げた。

「検査が終わればすぐ退院だから」

 彼女はそう言って、売店で最小限の生活用品しか揃えなかった。私は黙って頷いたけれど、まだ彼女は何も知らないのだ、とわかって恐ろしくなった。

 前の晩、廊下の壁にもたれて、彼女の夫と両親が声を押し殺して泣いていた。慰める若い看護師も目を真っ赤に腫らしていた。マユミさんは呑気に『ドラゴンボールZ』なんか読んでいる。帰ったら何をしようかなんて考えている。ひとり雑音の届かない膜の中で息をしている。橙色の蛹だった。

 彼女の夫は、毎晩小さな女の子を連れて面会に来た。仕事を終え、片道2時間以上かけてやって来る。いつも消灯時間に差し掛かっていたけれど、誰もそれを咎めなかった。枕元の小さな電球が親子を照らす。女の子が声をひそめて「あのね」とお喋りする。保育園に通い始めたばかりだという。お母さんに教えてあげたいことがたくさんあるのだ。くすくす笑う声が聞こえる。ふたりは廊下の照明が落とされる21時になると静かに帰って行く。

 明け方、カーテン越しにマユミさんの気配を感じるとほっとした。大丈夫。彼女はちゃんと今日も生きている。そんな確認を頼まれたわけではないけれど、ふたりに代わって気に掛けるようになった。

 マユミさんの身の回りの荷物が増えてきた8月半ば、生温かい夕飯を口に運んでいると、どーんと窓が震えた。ビルの陰に金色の帯がすーっと消えていった。

「花火だ!」

 マユミさんが子どもみたいに騒いだ。私も箸を置いて窓にへばりついた。

「屋上に行こう」

 この日あまり元気のなかったマユミさんが流動食をずびずびっと掻き込んで、そう言った。私もつられて味噌汁を一気に飲み干した。大の大人がふたり、点滴のカートを引き摺りながら、長い長い廊下を走った。まるで青春映画みたいだ。

 けれど、やっと辿り着いた屋上の扉には重たいチェーンがぶら下がっていた。私たちの冒険は、わずか数分であっけなく終了した。マユミさんは明らかに落胆していた。重い足取りで引き返そうとしたとき、非常口の窓がまばゆく光った。私たちは何も言わずに走った。

 螺旋階段の格子の向こうに群青の空が広がっていた。

 2週間ぶりに風を浴びた。湿った、懐かしいにおいがする。夏の夜のにおいだった。

「刑務所みたい」

 私は鉄格子をがしがしと揺すって浮かれていた。

「私、大腸癌なんだって」

 マユミさんが消えそうな声で言った。聞き違いであってほしかった。けれど、「やっぱり」とも思った。告げられるのをずっと待っていたような自分に気付いて、うんざりして、嫌悪して、何か言わなければと言葉を探したけれど何を言っても薄っぺらくなりそうで、うつむいた。花火と花火のあいだの沈黙に、じりじりした。

 真下の土手で浴衣のカップルが肩を並べていた。

「いいなあ」

 マユミさんが子どもみたいな声を上げた。喉の奥がぎゅっとなった。何か言いたい。言わないと。だけど、「大丈夫ですよ」なんて励ますのは違う気がして、「ここの方が眺めがいいよ」って、ぼそっと呟いた。やっと絞り出したのがその一言だった。

「そうだね」

 マユミさんが笑ってくれたので、私は少しほっとした。

 赤い光が降り注ぎ、点滴袋に反射した。どわんどわんと螺旋の渦が震える。この花火を忘れないようにしよう。目と耳と皮膚と骨、からだの全部で記憶した。

 マユミさんは夏の終わりに亡くなった。

※当連載は、同人誌『なし水』に寄稿したエッセイ、並びにブログ本『塩で揉む』に収録した文章を加筆修正したものです。

<TEXT/こだま>