実家のある故郷から離れた場所で暮らしていると、環境の違いに悩んだり周りの人間とソリが合わなかったりして、ホームシックにかかることがあります。ホームシックになってしまい最終的に故郷に戻る決断をする人はたくさんいるのですが、ロシアからアメリカのニューヨークに移住してきた1人の女性は、交通費がないためにアラスカ付近まで歩き、そこからボートでロシアに渡って帰ろうとしました。

Lillian Alling, the Woman So Homesick She Walked From New York to Alaska | Mental Floss

http://mentalfloss.com/article/91243/lillian-alling-woman-so-homesick-she-walked-new-york-alaska

Lillian Alling - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Lillian_Alling

ニューヨークから故郷のロシアまで徒歩で帰ろうとした女性、リリアン・アリングさんがニューヨークにやって来たのは1925年のこと。アリングさんがアメリカに移住してきた理由は明らかになっていません。当時25歳だったアリングさんは、内向的な性格が影響したのか、ニューヨークで孤独を感じ周りの人が外国人を見下すエリート主義に見えていたそうです。

アリングさんの旅が始まった時期は詳しくわかっていませんが、1926年の末から1927年初頭の時期にニューヨークを出発。まず五大湖の1つ・エリー湖の東端に位置するニューヨーク州バッファローまで移動。ここまでが約560km。

バッファローからはいったんカナダを通ってエリー湖の北側を抜けてシカゴへ。ここが約820km。

そしてシカゴからはミネアポリスを経由して、再びカナダに入りウィニペグへ向かいました。この間は約1370km。

ボロボロの服を着て男性用の靴を履き、手には護身用の鉄パイプを持つ、という姿は異様なもので、アリングさんのことを心配して声をかける人もいましたが、聞かれるたびにアリングさんは「シベリアに行くんです」と答えていたそうです。

次にアリングさんの目撃情報があるのが、ブリティッシュ・コロンビア州のアッシュクロフトという町。ウィニペグからは約2140km離れています。目撃された時期は「1927年」なので、アリングさんは遅くとも1年で北米大陸を横断したようです。

アッシュクロフトはブリティッシュ・コロンビア州をアトリンまで縦断し、さらにユーコン準州のドーソンを経てアラスカ州まで1600kmある「ユーコン・テレグラフ・トレイル(Yukon Telegraph Trail)」と呼ばれるルートの入口でした。

「Wires in the Wilderness: The Story of the Yukon Telegraph」(著:ビル・ミラー)という本には、このトレイルルートの図版が掲載されています。左上にアラスカ州(アメリカ)とユーコン準州(カナダ)の国境があり、その国境沿いのイーグル(Eagle)という町からくねくね曲がった道が右下のアッシュクロフト(Achcroft)まで続いています。

「テレグラフ・トレイル」という名前の通り、通信施設に沿ったトレイルルートだったので、アリングさんは30km〜50kmごとに設けられていた通信施設の作業員向けの小屋を宿にしていました。アリングさんの存在は作業員の間に知れ渡り、通信会社にもその情報が入りました。

会社から連絡を受けた警官のJ.A.ワイマンさんは、ロシアまで行くことは現実的ではなく、安全面から考えてもやめさせたほうがいいと考えて、アリングさんを放浪の罪で逮捕。裁判の末、アリングさんはバンクーバーの刑務所に入れられることになりました。このときワイマンさんが、アリングさんの精神状態よりも、刑務所に入れられることで体力を取り戻し再び歩き始めるのではないかと心配するほどに、アリングさんの「ロシアへ帰る」という意志は硬かったそうです。

アリングさんは1928年の夏に出所し、ワイマンさんの心配した通り再び徒歩で歩き始めます。この頃には新聞などでアリングさんのことは話題になっており、通過予定だった街の人たちはアリングさんが来るのを楽しみにしていたとのこと。また、地元の人の中にはアリングさんに徒歩ではなくヒッチハイクで行くことを提案しましたが、アリングさんは断ってたという話も残っています。

裁判官にもアリングさんを止めることはできず、「ユーコン・テレグラフ・トレイル」に沿った小屋を使って休むことを約束させるのが精一杯でした。こうして1928年春に釈放されたアリングさんは、再びトレイルルートを利用して北上。道中、アリングさんは裁判官との約束を守って、作業員たちから温かいごはんや着替え、旅のお供としての犬などを受け取ったそうです。



最終的に、ユーコン準州の中でもかなりアラスカに近い町・ドーソンにたどり着きました。ドーソンでは多くの人がアリングさんの到着を待ちわびるような状態だったそうです。なお、バンクーバーからドーソンまでの距離はおよそ3000kmほど。Googleマップのルート検索では「テレグラフ・クリーク」や「アトリン」などを経由するトレイルそのもののルートは検索で出すことができませんでした。

ドーソンに着いたアリングさんはレストランでウェイトレスとして働いてお金を貯め、中古のボートを購入。ボートを自分で修理し、暖かくなってくると、ユーコン川からアラスカに向かって旅立っていったたとのこと。アリングさんの足跡は、アラスカ州西海岸の町・ノームまでは確認されています。

その後、1929年にベーリング海峡の沿岸でアリングさんのボートが見つかっていますが、アリングさんが無事故郷へ帰れたのか、それとも別の結末を迎えたのかは、はっきりとはわかっていません。

ただ、1972年にアリングさんの旅のことをTrue West Magazineに書いたフランシス・ディッキー氏は、直後に読者のアーサー・エルモア氏から興味深い便りを受け取っています。便りは、エルモア氏が1965年ごろにヤクーツクを訪れたときに偶然再会したという友人の話についてでした。1930年にベーリング海に面した町・プロヴィデニヤに住んでいたというこの友人はエルモア氏に、当時、ベーリング海峡の海岸沿いでボロボロの衣類を着た女性が見つかったという話をしました。この不審な女性を当局の人間が取り調べたところ、女性は「アメリカで異端者として扱われたので家へ帰るための旅をした、ものすごい距離を歩いたけれど、とうとうやり遂げた」と語ったそうです。

この女性がその後どうなったのかは不明で、そもそもこの女性がアリングさんであるという証拠もないのですが、数々の困難を乗り越えてニューヨークからついにベーリング海峡にたどり着いたアリングさんであれば、ベーリング海峡を越えて本土のプロヴィデニヤにたどり着いていたとしてもなんら不思議はない気がします。

ちなみに、アリングさんの旅路のうち、ニューヨークからユーコン準州のドーソンまではおよそ7450km。休みなしで1525時間(63日強)かかります。