ハバナの宿でオーナー一家とともに。日本からはるばる墓参りに来た筆者(中央)にフィデルのポスターをプレゼントしてくれた

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“キューバ革命の父”カストロ前議長の死から2ヵ月ーー。新進気鋭のノンフィクション作家・前川仁之(さねゆき)が“カリブに浮かぶ赤い島”を緊急現地ルポ!

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2016年11月25日。フィデル・カストロ(前キューバ国家評議会議長)が亡くなった。90歳だった。国葬に間に合わなかったが、ふとフィデルが親日家だったのを思い出し、「四十九日」以内に行けばまだ魂がさまよっているはずだとこじつけて、キューバに飛んだ。

首都ハバナ、ホセ・マルティ国際空港に降り立ったのはフィデルの死から1ヵ月後の夜10時過ぎのこと。ターミナルビルから一歩踏み出すと、生暖かい南国の空気に包まれる。

ハバナ市内の宿まではタクシーで行った。3児の父だという黒人運転手はおあつらえ向きにおしゃべりだった。おかげで、少々口にしづらい服喪(ふくも)の話題を切り出せた。

「今はすべてが日常に戻っているよ。9日間は音楽も酒も一切絶ってたけどね。いや、観光客がどうしていたかは知らんが。国家規模の哀しみだよ。フィデルは、まったくどえらい男だった」

やけに車を飛ばす。ちらりと運転席の速度計を見ると、時速0キロを指していた。車は走れて止まれればよい、計器類など二の次なのだ。体感時速は100キロ近かったが、本当のところはわからない。運転手が噛み締めるフィデルの偉大さもまた、数値では知れないものだろう。

翌日、ハバナ旧市街の革命博物館へ向かう途中で、自称“家具職人”の細いおっさんにガイドとしてまとわりつかれた。名物カクテルが飲めるという店についていくと、壁にチェ・ゲバラと並んで、晩年のフィデルの写真が張られていた。「君が打ち破れなかった人物の死を喜ぶのは大いなる過ちである」と書かれている。一部のアメリカ人や、反カストロ亡命キューバ人への嫌味だろう。

男は二枚の写真を指して言った。「ごらん、このゲバラの写真が今までは世界で一番有名な肖像写真だった。今後はこっちのフィデルの写真が世界中に広まるんだよ」

その後、葉巻の話ばかりする彼と別れ、革命博物館に到着すると、豪壮な正面玄関に「すべてにありがとう、フィデル」と記された肖像写真つきの垂れ幕がかかっていた。もちろん、死後に加えられた変化だ。

ハバナで私が泊まったのは「民泊」に当たる安宿で、オーナー家族との距離が近い。3日目の朝、キューバ第2の都市であり革命発祥の地であるサンティアゴ・デ・クーバへフィデルの墓参りに行く計画を伝えると、奥さんの表情が変わった。心からうれしそうに、「ぜひ行ってらっしゃい。素晴らしいわ、私たちもまだ行ってないんだもの」と言う。

それをきっかけに、フィデル談議が弾んだ。私と同年輩の主人もフィデルが大好きと見え、「大事なのはフィデル自身は裕福な生まれだったってことだよ。自分の特権を捨ててでもキューバのために尽くしてくれたんだ」と熱く語っていた。

サンティアゴ・デ・クーバまではバスで15時間かかった。翌朝、墓地に先立ち、モンカダ兵営に歩いて向かった。1953年7月26日、当時26歳の弁護士フィデルとその同志たちがここを襲撃し、キューバ革命の端緒を開いた。襲撃そのものは失敗し、フィデルも捕らえられるのだが、被告人と弁護人を兼ねる二刀流で法廷闘争に臨み、「処罰したまえ。歴史は私を無罪放免するであろう」という名言を残す。

モンカダ兵営は、現在小・中学校になっている。兵営だけに広大なグラウンドがあり、子供たちがサッカーをしている。博物館として一般開放されているのは南東端の3番ゲートで、ここはまさにフィデルの部隊が攻め入った地点だ。オレンジ色の壁に今も、当時の弾痕が生々しく残る。

展示を見終えて表に出たとき、不意に隣の入り口階段から歓声が沸き起こった。

「ジョ・ソイ・フィデル! ジョ・ソイ・フィデル!」

僕はフィデルだ、という意味のその言葉を、さっきまでサッカーをしていた少年らがリズムに乗って連呼している。

キューバ滞在中、フィデルの死後に広められたと思われるスローガンを数多く目にしたが、なかでも最大の流行語はこの「ジョ・ソイ・フィデル」だ。少年たちはゴールを決めたのか、ハーフタイムの余興なのか、その後オエオエオーと応援歌を歌い始めた。

「フィデルの墓に行くなら早い時間に行ったほうがいいよ、行列がすごいから」という学校の先生の言葉に促され、私は旧兵営を後にした。

気温は30℃を超えていた。30分ばかり歩いて、街外れのサンタ・イフィへニア墓地に着いた。ヤシの葉が風にそよぐ広大な敷地に墓石が並んでいる。フィデルの墓はすぐにわかった。ホセ・マルティ霊廟(れいびょう)の手前に、居眠りするインド象のようなずんぐりとした墓石がある。墓石から10mほどおいて、「革命の理念」が刻まれた巨大なモニュメントが立てられている。「立ち止まらずに歩いてください」と制服を着た係官が指示を出している。私たちは一列になって、流れ作業でフィデルの墓と対面する。

外国人観光客とキューバ人と、半々くらいだろうか。観光客のほうは、ひとり1台持っているスマホのカメラで撮っていくのでわかりやすい。もちろんキューバ人も、持っている人は写真を撮るが、「FIDEL」とのみ刻まれた墓石に何か問いかけるような眼差しを向けて、ためらう。柵に手をかけて、未練を見せる人もいる。母親に手を引かれた黒人の少女が、もう一方の手で花を供えていた。

私の番が来た。向き合ってみると、ゲリラ戦の拠点にしたマエストラ山脈から切り出してきたというその石は、頼りがいとユーモラスな雰囲気を兼ね備えていて、フィデルのイメージに合っていた。「立ち止まらずに」という指示をつかの間破り、脱帽して瞑目(めいもく)した。

キューバに来て、まだ一度も泣き顔や湿っぽい声を拾えていなかった。多くの人がうれしそうに、時には誇らしげにフィデルの思い出を語るのだ。皆明るい。

昼間からビールを飲んでいた人たちのお相伴(しょうばん)にあずかったとき、その明るさの根拠を教えられた気がした。ひとりの男性が、1956年12月2日に始まる革命戦争のエピソードを話してくれたのだ。

「メキシコに亡命していたフィデルたち82人の革命軍がヨットで上陸した際、最初の戦闘で70人近くがやられてしまった。そのときフィデルは残った武器をかき集めて言ったんだ。『さてと、勝つのは私たちだぞ』と。そのとおりになったじゃないか」

「フィデルのその楽観性を受け継いでいるのですね」。ほろ酔いの私は妙に納得した。

サンティアゴ市内のCDR(革命防衛委員会)で話を聞いた男性など、明るいを通り越してふざけていた。CDRとは、戦中の日本でいうところの「隣組」のような大衆組織だ。

「こう言うんだよ。キューバの強さは、アレの強さだ、と」そう言うと彼はかつて日本ではやった「ハッスルポーズ」みたいに腰を突き出した。

「わかるかい? セックスの強さだ。それがあるからアメリカに立ち向かえる。(フィデルの写真を指し)彼が一番、デカかったんだよ」

そこまでまじめくさって言ってから、初めて声を立てて笑った。もちろん彼はCDRの地区長を務めるくらい、熱心な革命支持者だ。かつての最高指導者をちゃかしているのではない。

少なくとも尊敬の仕方に「自由」があることがうかがえる。フィデルを敬愛するのに、マニュアルはない。当然だ。本人が生前から常々、自分が個人崇拝の対象となることを嫌っていたのだから。この点で、仮にフィデルを独裁者の列に加えるとしても―私が話を聞いたなかではひとりだけ、「彼は独裁者だった」と苦言を呈した男性がいたが―、ヒトラーやスターリン、毛沢東らとは一線を画す。

ふざけた敬愛の表現がある一方で、こちらをどぎまぎさせるような、命がけの愛情を吐露(とろ)してくれた人もいた。サンティアゴで私が泊まった宿の主人は、若い頃にフィデルに手を握ってもらった経験があると言う。

「その日は誰がなんと言おうと、右手を使わなかったよ」

と、そんなエピソードを楽しそうに語っていたが、不意に寂しげな目つきになり、静かに断言した。

「私がどれだけフィデルが好きかというとね。できることなら私の一生を、フィデルの一日に変えてもいい。いや、変えたかった。それぐらいの気持ちなんだ」

近所の教会から、にぎやかなクリスマスライブの音がしつこく聴こえていた。

再びハバナに戻って、キューバ滞在の最終日、27日になると街に変化が見られた。革命博物館の入り口にかかっていた垂れ幕がなくなった。新市街へ行くと、その前夜まで国立図書館の巨大な壁一面にかかっていたフィデルの写真が、これもきれいに撤去されている。

この日、実弟のラウル・カストロ議長は、個人崇拝を嫌う兄の遺志を法案にして提出し、全会一致で可決された。フィデル・カストロの名を道路や公園に使ったり、彼の肖像、胸像等を公共の場に置いたりすることを禁じる法だ。

没後ひと月余りが過ぎ、追悼の期間が本格的に終わったことを感じさせる。「四十九日的な節目」を迎えたようだ。

モンカダ兵営襲撃が失敗に終わった際、敵側のサリア中尉という人物が発した言葉を紹介して締めくくりたい。捕らわれたフィデルたちに銃口を向ける兵士を制し、彼はこう言ったのである。

「撃つな。理想は殺せやしない」

この言葉を噛み締めながら、フィデル・カストロの魂を送ろう。歴史のバトンは残る私たちに託された。恐れず恥じずに理想を育て、最大瞬間革命のつるべ打ちで明るい時代を点描してゆこうではないか。

●取材・文・撮影/前川仁之

82年生まれ。スペイン語の勉強を始めた頃、フィデルの演説をCDに焼いて何度も聴いていた。結婚式でスピーチを頼まれるとやたら長くなるのは、ぜんぶとは言わないまでもフィデルのせい。近著に『韓国「反日街道」をゆく』がある