昔は職人が座っていた!? 「江戸前鮨」12の進化

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「江戸前鮨」は江戸時代から続く伝統料理、と思うかもしれませんが、実は、幾多の変遷と変化を経て、今なお進化を続けています。その変化と進化を辿ってみます。

■1. 「江戸前」とは?

江戸の前の海だから「江戸前」。当初は、たかだか品川から深川間の前に広がる海のことをいったが、小肌、鱚、穴子、白魚などの小魚類、平目や鰈などの白身、蛤や赤貝と魚介類が豊富で、こうした海の幸、いわゆる江戸前物を利用して握り鮨が発展した。現在は東京湾全体で獲れるものを「江戸前物」と呼んでいる。また握り鮨は大正時代から昭和初めにかけて全国に展開、ご当地鮨と区別するため、近年になって「江戸前鮨」という呼び名が誕生した。

■2. 江戸バブルの鮨王、華屋與兵衛

鮨の歴史に残るビッグネーム。文化文政(1804〜1829年)という江戸のバブル期、食文化も頂点に達した時代、華屋與兵衛は街を流す鮨売りからやがて両国に店を開く。売り出したのは、握るという新手法の鮨である。それまでの鮨は時間のかかる押し寿司で、目新しい鮨は一躍人々の注目を集めた。こうして握る寿司、すなわち握り鮨は、與兵衛の名とともに後世に伝わることになった。與兵衛以前にも握り鮨を試みた者はいたということだが、與兵衛が成功したのは、グルメ爛熟期という世相が後押ししたからといえる。

■3. 赤身からとろへ

かつて鮪は下魚とされていた。その鮪をヅケにして初めて握ったのは、江戸馬喰町の屋台「恵比寿寿司」。天保年間(1830〜1844年)、江戸近海で鮪が大漁になってからのことだという。以後、高級な鮨屋は敬遠したものの、大衆的な屋台を通してヅケ鮪の鮨は浸透していく。ただし使うのはもっぱら赤身で、とろが人気となったのは第二次世界大戦後、洋風嗜好に変化してからだ。そして今、鮪は鮨ダネのなかで最も高級なタネ。いくつもの逆転劇をくりかえし、今の座を得た。

■4. 笹切り家紋でチップ頂戴

テイクアウトの折詰によく入っているビニールの緑色の仕切りには、実は深イイ話がある。昔の高級鮨屋はテイクアウトが中心、客はお重持参で予約した。そこに鮨を詰めるとき、仕切りに笹の葉を切って使った。これがビニール仕切りの始まりなのだ。職人は、さらに切紙細工みたいにして笹の葉で注文主の家紋を切り出し、鮨のうえにハラリ。オンリーワンのサービスは、たんまりチップも期待できるというもの。当時の鮨職人に、家紋を記した家紋帖は必須だった。

■5. 昔は職人が座り、客は立っていた

浮世絵が描く鮨の屋台をよーく見ると、職人は座って鮨を握っている。やりにくそうだけど、当時はそれが当たり前だった。包丁式といって、まな板の前に座って魚をおろすパフォーマンスがあるが、料理は座ってするものだったのだ。ゆえに屋台みたいな狭小スペースでも、職人は椅子代わりの箱などに律義に座って握った。客用の椅子はなく、客は立って食べた。戦後まもなく姿を消した屋台だが、カウンターを取り入れた店があちこちにできた。造りは屋台の気分だが、今度は職人が立ち、客は座るという今のスタイルに変化した。

■6. 暖簾が汚い店は旨い

屋台には狭小スペースならではの知恵があった。客に長居されては困るから酒は出さない。代わりに大きな湯のみでお茶を出す。醤油はどんぶりに注いだものを共同で使ってもらう。当時の鮨は大きいのでかじりかけを醤油に浸す不心得者もいて、「二度づけお断り」の張り紙があったりした。鮨をつまんだ手は、小さく切った新聞紙がぶら下がっており、それで拭く。ときには暖簾で。だから暖簾が汚い店は旨い、などとまことしやかにささやかれた。屋台がなくなっても暖簾は残ったので、“暖簾が汚い店”伝説は、昭和の終わりごろまであったようだ。

■7. 「5カンのチャンチキ」から「委託10カン」へ

昔の鮨は大きかった。戦前は、お一人様「5カンのチャンチキ」が相場。握り5貫に、チャンチキ馬鹿囃子の太鼓のバチに見立てた海苔巻き2本。これで、充分お腹はふくれたという。戦中の暗黒時代はさておき、戦後も極端な食糧難が続き、料理屋の営業は禁止、旅行者は旅館に泊まるのにも米持参だった。ところが1947年、鮨屋に限って「委託加工」という制度で営業が可能になる。客は米1合を持参。店で食べることはできないが、鮨屋が用意したタネで鮨に加工してもらうのだ。1合で10貫。握り8貫と海苔巻き2本というこのスタイルが、戦後から今に続くお一人様の基本になった。

■8. 軍艦巻きという革命

酢飯に海苔を巻いた姿から軍艦巻き。イクラをのせたのが始まり、いやコノワタだと諸説あるが、ともかく名前からして、戦争の生々しい記憶のうちに生まれた鮨の形だ。正統派の鮨屋からバカにされた時期もあったが、鮨ダネの可能性を広げたのはたしかだ。1950年代の終わり、築地市場へ初めて入荷した生うにが、やがて人気のタネに成長していくのも、軍艦巻きの手法とコラボしたおかげだ。サラダとかおよそ握れないものまでタネになるのだから、すごいことだ。

■9. 1980年代バブルで活魚人気

昔の鮨が大きかったのは、タネの種類が少なかったことも理由の一つだ。白身など冬は平目、春から夏が真鯛か鰈で、たまになにかが加わるといった調子。やがて高度成長期に入り、鮨屋で刺身を肴に酒を飲むようになる。これをきっかけに、白身の種類が増えた。さらに拍車をかけたのは1980年代のバブル景気。活魚トラックが急速に普及し、空前の活魚ブームが起きた。付加価値の高い魚が売れたのだ。以後、鮨屋が活魚を使うことが常識のようになり、鮨に生の鮮度感が強く求められるようになった。

■10. 江戸前の仕事とは?

酢で〆た小肌、煮穴子、煮蛤などが今に残る江戸前の代表的な仕事だ。昔は細魚(さより)や鱚ほか光り物はすべて酢で〆た。白身も鮪のヅケのように醤油にくぐらせることがあったし、烏賊は煮た。冷蔵庫がない時代、こうした下処理は必要不可欠であり、これが江戸前の仕事の始まりだ。今も、下処理ともいうべき仕事がすたれないのは、永い間にそれぞれのタネをみごとにおいしくする手法に変わってきたからだ。鮨とは、刺身、酢の物、煮物、焼き物と、日本料理のコースを一堂に味わえる贅沢な料理、それが大きな魅力になっている。

■11. 江戸前は常に進化する

江戸のグルメ爛熟期に誕生して200年。歴史をふりかえっても、鮨がすたれたのは戦争中だけで、ずっと愛されてきた。理由はどこにあるのだろう。それは、鮨がいつも多様な変化を受け入れてきたからだ。鮪の赤身からとろへ、客と職人の立ち位置の逆転劇、酢飯の大きさ、さらに江戸前の仕事も、進化している。鮨は、時代の、海外に出たらその国の、舌感覚に巧みに合わせてきた、合わせることをいとわなかった。鮨とは、たぐいまれなしたたかな食べ物なのだ。

■12. 鮨屋が多い県

人口10万人当たりの鮨屋の軒数が最も多いのは、山梨県で約34軒。以下、石川県32軒、東京都29軒、静岡県24軒、北海道24軒と続く。最も少ないのは沖縄県の11軒(平成24年度経済センサス―活動調査などによる)。山梨県は法事や宴会で鮨を食べることが多いから、など諸説あるが、明確な理由は定かでない。ちなみに、東京都で最も鮨屋の数が多いのは銀座がある中央区で352軒(平成21年経済センサス――基礎調査より)。

(文・福地享子)