高速増殖炉もんじゅ(「Wikipedia」より)

写真拡大

 原発問題が相変わらず日本を揺さぶっている。政府は昨年12月、高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の廃炉を決定した。核燃料サイクルの中核施設とされたが、1兆円以上の国費を投じて250日しか稼働できなかった。

 政府は同月、東京電力福島第一原発事故の処理費用について、従来の見込みの約2倍となる21.5兆円に膨らむとの試算を公表。追加費用を電気料金への上乗せで賄う方針を提言案に明記した。
 
 昨年は運転開始から40年前後たった老朽原発の延命も相次ぎ、世論では賛否が対立した。2011年3月の福島第一原発事故からやがて6年にもなろうとするのに、原発問題は解決の糸口さえ見えない。

 その最大の原因は、エネルギー問題とは経済問題であるにもかかわらず、経済問題は市場に任せるという基本を推進派も反対派も忘れていることにある。市場に任せなければならない最大の理由は、コストの見極めだ。政府の算定では本当のコストがわからない。

 原発の発電費用について政府は、福島第一原発の事故処理費倍増を反映させても1キロワット時当たり10.2〜10.4円と、液化天然ガス(LNG)火力(13.7円)や石炭火力(12.3円)、水力(11円)など他の発電手段に比べ安いと主張する。

 これに対し立命館大学の大島堅一教授は「架空の前提に基づくため実態を反映していない」と批判する。政府試算は事故がほとんど起きない前提なので、福島原発にかかる費用がいくら膨らんでもほぼ影響しない。安全対策強化に伴う世界的な建設費の高騰も反映されていないという。

 大島教授が原発の建設費や投じられてきた税金、事故の賠償など実際にかかった費用を積み上げ、原発の過去の発電量で割って試算したところ、発電費用は1キロワット時当たり12.3円と政府試算を上回った(2016年12月11日付東京新聞記事より)。

 政府は原発を推進したい立場だから、原発のコストをできるだけ小さく見せたい意図が働いても不思議ではない。かりにそうした意図がないとしても、将来に対する見通しの甘さからコストの見積もりを誤る恐れがある。

●経済合理性を無視

 甘い見通しは、もちろん民間企業もしてしまうことがある。たとえば東芝は昨年12月、原発事業で数千億円の損失が出そうだと発表した。米国の原発子会社が買収した米原発建設会社で、必要とする費用が想定を大きく上回るためだ。その一因は、福島原発事故後の規制強化で安全対策費が増えた影響という。前述のように、政府試算もこの影響を無視している。

 しかし政府と民間企業には大きな違いがある。民間企業は甘い見通しがもたらした結果を自分で引き受けなければならない。東芝の場合、巨額損失で債務超過に陥る恐れも取り沙汰される。それを避けるため資本を増強するには、増資、事業切り売り、金融機関の支援などの手段があるが、いずれも簡単ではない。金融機関に支援してもらうため、一段の合理化を迫られる可能性もある。
 
 これに対し、政府は見通しが甘くてもほとんど痛みを感じない。原発事故の事故処理費など経費が当初計画を大きく上回っても、電気料金の上乗せや増税で賄えばよい。政府の無駄な事業を中止するなど合理化を迫られる心配もまずない。誤った判断をした政治家や官僚の責任も問われない。これではコストの算定にあたり、経済合理性を無視した希望的観測がまかり通るのも当然だ。

 エネルギー問題は市場に任せよという主張には反対も強いだろう。特に原発のように高度な科学技術に基づく事業は、短期の利益を追求する民間企業には無理で、政府でなければ担えないという意見をよく耳にする。

●原発問題の真の解決

 しかし、それは思い込みにすぎない。第二次世界大戦が始まる以前、初期の原子力研究の大半は政府の予算に頼らず、民間財団や大学の資金で賄われていた。

 たとえば「原子物理学の父」と呼ばれ、1908年にノーベル化学賞を受賞したアーネスト・ラザフォードが研究に携わったのは、英国のマンチェスター大学。現在は他の大学と統合して国立大学となったが、もとは19世紀半ば、地元の繊維商ら実業家の寄付により設立された。マンチェスターは産業革命後、綿織物工業の中心地として発展した商工業都市として名高い。

 ラザフォードに学び、量子力学を確立したニールス・ボーアが母国デンマークに設立した研究機関、ニールス・ボーア研究所は、1920〜30年代に原子物理学研究の中心地となる。この研究所の財政を支えたのも、ビール醸造大手カールスバーグの財団を中心とする民間の資金である。

 一方、40年代になると第二次大戦に伴い米国やドイツの政府が原爆開発に乗り出し、研究資金が政府予算で賄われるようになる。しかしこれは原子力の平和利用研究をかえって妨げた。厳しい秘密主義により、研究者間の自由な情報交換が規制されたためだ。

 原子力研究に対する政府の介入は、科学全般にも悪影響をもたらす。米政府は戦後も原子力に過剰な期待を抱き、他分野の研究者や技術者まで動員したため、それらの分野で人材不足を招いた。

 人材だけではなく、さまざまな物資も政府が特定の技術に肩入れすると、その分野に配分が偏りがちになる。かりに技術開発に成功したとしても、国民全体を幸福にするとは限らない。

 極端な例が、かつてのソ連の宇宙開発だ。1957年、ソ連は人類初の人工衛星の打ち上げに成功し、先を越された米国など西側諸国に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃を与えた。しかし結局、ソ連の技術力は国民を幸せにする役には立たず、後に国家は崩壊した。

 どんなに有望そうに見える科学分野でも、他との兼ね合いでどれくらいの人材や物資を投じればよいのか、政府には判断できない。市場を通じ、消費者の需要を探るしかない。

 原発も例外ではない。もし純粋な民間事業として営まれれば、保険料を含む万が一のコストは企業の自己負担となるから、安全性を軽視した立地や操業はできない。収入よりコストが高くなりすぎれば淘汰され、他のエネルギー開発や経済活動に人と物がすみやかに投入される。

 今からでも遅くはない。事実上国営となっている原発から政府は手を引き、完全に自由な民間事業にするべきだ。その根本に踏み込まない限り、原発問題が真の解決に向かうことはないだろう。
(文=筈井利人/経済ジャーナリスト)