元カープ投手・国木剛太が営む「GS野球塾」では若い才能が続々と育っている

写真拡大

「去年は広島が優勝し、引退後に一番楽しくプロ野球を観戦できた時間でした。結局一軍で投げることはできませんでしたが、それでも感謝の気持ちしかない。カープという球団は、引退後もそんな想いを持ち続けることが出来る程、親身に面倒を見てくれた球団でした」

 現在、派遣社員として働きながら、大阪の堺市で個別野球塾「GS野球塾」を営む国木剛太は、自身の現役時代を懐かしむ表情を浮かべつつ、こう振り返った。

 大阪・上宮高校野球部で過ごした高校時代、国木(現性・杉本)の名は府下はおろか、関西中に知れ渡っていた。

「国体クラスのアスリートだった」という両親のDNAを受け継ぎ、恵まれた身体能力を武器に中学時代から頭角を現し始める。左腕から140kmを超えるキレのある速球を投げ込み、抜群のマウンド度胸で打者を圧倒していく豪腕として、甲子園出場はないながらも関西No.1左腕との呼声高かった。3年時の夏予選前には、「ドラフト指名1位を考えている」との声をかける球団が3球団にも及び、2002年の高校生ドラフトの目玉の1人ともいえる選手だった。

 そんな国木に転機が訪れたのは、3年時の夏の大阪府予選。試合前のアップ中にチームメイトと衝突し、転倒した際に利き腕の左手に全体重が乗りかかる。最後の夏を迎えた大事な試合で、手首が2倍以上に腫れ上がるという重症を負った。

◆「あー、これはエラい世界に来てしまった」

「その日は投げることができず、試合も敗退しました。それでも7月に手術をし、リハビリ後は年内に投球を再開できるという目処が立っていた。大学からも声があったんですが、迷った末に怪我をしても根気強く誘っていただいたカープへの入団を決めました。高校の先輩にあたる黒田博樹さん、西山秀二さんがいたのも決め手でした」

 国木は投手生命が危ぶまれる怪我に襲われながらも、そのポテンシャルを買われ、2002年、大竹寛(現・巨人)らと同期となるドラフトで、6位指名を受けプロの世界に足を踏み入れた。迎えたキャンプ初日、国木は並み居るプロ選手達と自身の実力に大きな開きを感じたという。

「左手の状態は、キャッチボールもまともにできず、キャンプ中もひたすら下半身のトレーニングとリハビリメニューを淡々とこなすだけ。そんな状態で追い打ちをかけたのは、投手陣の先輩達が投げる、これまで見たことがないようなボールのキレでした。『あー、これはエラい世界に来てしまった』と思いましたね」

◆プロ入りから3年以上経過するも、活躍の場は訪れず

 同期のドラフト選手達が試合に出場し、プロとしてのステップを順調に進めて行く中、国木は日々卑屈な想いを強めていったという。

「僕のように怪我で投げられない選手が、一緒にグラウンドで練習していていいのか、と自問自答し、気がつくと練習に行くのも嫌になった。元々の性格もありますが、誰かを蹴落としてでも上に行きたいという考えも一切持てなかった。それでも、オーナーが練習を見に来てくれて、『怪我が治るまで待つから、根気強くリハビリを続けてくれ』と2軍戦まで来て、声をかけてくれたのが唯一の救いでした」

 左手の状態は、一向に改善されず、ようやく迎えた初登板はプロ入り後、3年半の月日が流れていた。

 2004年の8月21日の近鉄戦で中継ぎとして登板し、近鉄打線を3者凡退で抑え「初めてプロ野球選手となった」という実感を持った。しかし、繊細な指元の感覚は戻ることなく、変化球を投げる際のリリース時の手首の違和感は拭われない。プロとして過ごした4年間、高校時代に豪腕で鳴らした投球を披露する姿をついに披露することはできなかった。

 2005年のオフ、国木は日の目を見ることなく、静かにユニホームを脱いだ。