8月の世界選手権ロンドン大会の選考レースでもあった1月29日の大阪国際女子マラソン。重友梨佐(天満屋)の優勝タイムは2時間24分22秒とレベルの高いものではなかったが、新たな方針を打ち出した日本陸連強化委員会・マラソン強化戦略プロジェクトとしては、それなりの成果を得られるレース内容だった。

 昨年、女子マラソンオリンピック強化コーチに就任した山下佐知子氏の発案で、今回新たに"ネガティブスプリット"という考え方を取り入れた。

 世界のレース展開の傾向として、五輪や世界選手権でも、前半は遅いペースで流れて後半が勝負になることがほとんどだ。そのため日本も前半に余裕を持って走り、後半にペースを上げて勝負する"ネガティブスプリット"のレースを試してみたいという意図があったのだ。

 これまでペースメーカーの設定は、2時間22分台を目標とした場合、5km16分40秒で30kmまで引っ張るというものだった。そうすると、最初からそのペースについていかなければいけないというプレッシャーもかかってしまう。一方、今回試したネガティブスプリットの考え方でいくと、5km17分05〜10秒とペースが抑えられることで、前半に余裕が生まれる。その結果、選手自身がどのような走りで勝負をすればいいかを考えられるようになる。それも山下コーチの狙いのひとつだった。

 スタート時の気温は10.2度。風もほとんどない好条件でレースは始まった。スタートから想定より遅めの展開で進み、5km通過は17分21秒。そこからの5kmは17分05秒と想定通りの展開になったが、ペースメーカーが昨年11月の埼玉国際マラソンを2時間23分18秒で優勝したチェイエチ・ダニエル(ケニア)ひとりになると、12kmあたりからぐっとペースが上がった。それについたのは、昨年2位の堀江美里(ノーリツ)と吉田香織(TEAM R×L)、加藤岬(九電工)の3人だけ。20km通過時点では重友や初マラソンの田中華絵(第一生命グループ)などは21秒遅れる展開になっていた。

 ペースメーカーが外れてから、3人の先頭集団を重友などの第2集団が追う。25kmからは堀江が飛び出し、30kmまでを16分51秒で走って、2位に上がった重友との差を35秒まで広げた。だが、堀江の独走かと思われたそこから、重友が追い上げる。重友は30km、40kmを16分57秒、17分12秒と、安定した走りで駆け抜け、徐々にペースの落ちてきた堀江を35.5kmでかわしてトップに立った。結局、後半のハーフを1時間12分12秒で走り切り、2時間24分22秒でゴール。2時間23分23秒で優勝してロンドン五輪代表を決めた12年以来5年ぶりの優勝を果たした。

「ペースメーカーは想定より少し速めになってしまったけど、世界大会ではそういうペースの上げ下げが起きるのは当たり前なので、そこを含めてどう対応するかと思って見ていました」と山下コーチは語る。

 レース展開について重友は、「(12kmあたりから)離された時は体が重いという感覚もありましたが、自分のタイムを見たらそんなに遅くなかったので、周りが上がったんだろうと思いました。去年だったらそこで『終わったな』と思っていたのですが、今回は一気に詰めるのではなく、徐々に追いついていこうと冷静に考えられたし、その後も『このままいけば勝負になるかな』と思えた」と振り返った。

 体調は万全ではなかったという重友だが、自分の意思でペースを抑え、苦しかった10kmから20kmは、16分56秒、17分02秒とリズムを守ったことでハマった。これまでの経験を最大限に生かすレースをできたことが、優勝につながったと言える。

 また、25kmから飛び出して2時間25分44秒の自己ベストで2位になった堀江も、「沿道から『後ろと10秒差』と言われた時は待つかどうか迷ったんですが、追いつかれたらまたスタートに戻ってしまうと思ったし、去年はここから前を追ったというのを強みにしてペースを上げました。ひとりで逃げる展開になったのは初めてでしたけど、その苦しみや、逃げる時は緊張してしまうというのを実感できたのはよかったと思う」と手応えを感じていた。

「ラスト2km、1kmで仕掛けるというのは、世界でアフリカ勢を相手にする場合厳しいと思うので、かつての高橋尚子さんや野口みずきさんのように、まだ15〜20kmを残しているところで抜け出すというのが望ましい。堀江選手の飛び出しは非常によかったと思います。それに自分のペースを守って、今出せる自分の力を100%発揮して優勝した重友選手も含めて今後、世界大会でこういう走りができれば、メダルにはまだ遠いものの、入賞できる確率は高くなる。ただ、今回のレースは本当の世界のトップ選手と戦うには力不足というのは見ての通りだし、2時間23分台は出てほしい数字だったので、これから練習を積んでいくしかないというのが全体的な評価です」

 こう話す山下コーチは、このネガティブスプリットで記録レベルが低下してしまっては意味がないとも言う。一番強調したいのは「マラソンというのは、後半をしっかり走りきってこそのマラソン」ということだ。

「これまでは30kmまで、ただついていくだけのレースをしていましたが、それではあまりにも世界との差があると感じました。レース中に自分で判断するということはすごく勇気もいることですが、それを普段からやっていかなければいけない。今回も最初のペースが遅かった時に、誰か前に行ってくれればいいなとも思っていましたし、ペースメーカーを無視して最初からいける選手が出てきてほしいというのも本音です。特に暑い東京を考えると、勇気を持って行った時に逃げ切れる可能性もゼロだとは思わないので」

 現段階で山下コーチが思い描く理想は、2時間24分、25分の選手がたくさん出てきて、激しく競り合うような状況を作り、その選手たちも、練習では2時間20〜21分台を狙う取り組みをしてほしいということ。さらに今年8月の世界選手権以降にマラソンに挑戦してくるであろう、トラックのスピードのある選手たちには、いきなり5km16分台のペースで走って2時間20〜21分台を狙うような取り組みもしてもらいたいという。

 山下コーチが考えるネガティブスプリットのレースは、前半に余裕を生むことで、勝つために、今自分がどんな走りをするべきか、選手自身が考えるキッカケを作る試みでもある。考えることが選手にとって普通になれば、それぞれが自分の武器を考え、それをトコトン磨くことができる。目指すのはそこなのだ。

 このネガティブスプリットのレースは、3月の名古屋ウイメンズマラソンでも実施される予定だ。

折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi