視聴者の目は厳しくなった。

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■芸能界との境界が曖昧になってきた

昨年は芸能スキャンダルが盛り上がりました。視聴者の反応や評価はかなり厳しかったようで、「不倫したタレントをテレビで使うべきか」などの議論もなお続いています。

人間には、自分と同質や近い世界のものには強い比較や対抗の意識を持つ性質があるようです。逆に、まったく別世界のものに関しては、寛容になれる。自分の存在意義や価値観に影響しないからです。

以前はもっと、芸能人などのスキャンダルに対して寛容だったという話をよく聞きます。ブラウン管の向こう側(芸能界)の人が不倫しようが、泥沼の私生活を暴露されようが、しょせんは別世界の人。好奇の目で見ることはあっても、それがいっそう別世界らしさを演出し、一般人たちがそんなに目くじらを立てることはなかったみたいです。

ところが最近は、向こう側(芸能界)とこちら側(一般人の世界)の境界が、ちょっと曖昧になってきたのだと思います。会いに行けるアイドルが生まれ、ツイッターで直接やりとりができるようになり、身近な人が動画サイトなんかで一躍有名になったりもするようになりました。

そもそも、そんな境界なんて人間が勝手につくったものなので、本質的に違いや線引があるわけではありません。同じ人間を、別世界風に演出しているだけです。ただ、そのはっきりとした境界によって、そこに一定の寛容さもあったのだとおもいます。「自分とは別世界の話だから」と。

ところが、そんなこんなで最近では、別世界のはずだった人たちを、自分の人生の延長線上に見るようになってきたのだと思います。そして、芸能人の背徳的な言動を許してしまうことは、自分の価値観やモラルも否定されてしまったり、守ってきた秩序が脅かされたりするような感覚に繋がってきたのだと思います。だから、許せない。

そんなことをぼんやり考えていたある日の夜、僕はこんな夢を見ました。

■「芸能籍」という戸籍

僕のみた夢の中では、テレビに出て活動しているような芸能人と一般人は、「戸籍」によって区別されていました。そして、マイナンバーカードみたいなものに、「一般」とか「芸能」といった区分が表記されていました。「芸能人」にカテゴリされる職業を選んだ人は、1年以内に「芸能籍」を申請・登録するのが決まりです。ただし、未成年については、「一般」と「芸能」の重複が認められていて、20歳までに選択するルールです。

「芸能」に登録した人には、日本の芸能カルチャーを担い盛り上げていく役割があります。そして、一般人とは違う独特のルールや文化の中で仕事をしていかなければなりません。人生の保証はなく、プレッシャーやストレスもハンパではない。その分「一般」の戸籍を持つ人にはない「自由」が認められています。たとえば、「芸能」の戸籍を持つ人たち同士であれば、スキャンダルになる不貞行為も、ただのネタにしかされず、責任は問われない。

一方で、芸能籍ならではの「制限」も課せられます。最も大きいのは、プライバシーの概念です。いかなる場合も芸能記者の質問にはきちんと答えないといけないし、日常生活のプライバシーを暴かれて記事にされても、文句は言えない(訴える権利がない)。そんな感じで、一般人に保障されている権利などが一部制限されてしまいます。そして、もし「一般」の戸籍の人を巻き込んで不貞行為を行った場合は、かなり厳しい罰が法的にも課される、といった感じです。

そんな生活が辛くなった場合は、引退して戸籍を変更することができます。「芸能」の登録を抹消し一般人に戻るのです。すると、芸能界の仕事はできなくなりますが、一般人と同じようにプライバシー保護の主張が可能になります。もちろん、一般人としてのモラルある生活も求められます。

■「違うもの」として共存する

あるアーティストの不倫(相手も芸能籍)が暴かれ、世間はこの話題で持ち切りになりました。一般人から「あいつまたやってるよ。相変わらずゲスな奴だな」と批判はされても、社会的な責任を問われたり、テレビ出演などの活動を辞めたりする必要はありません。

もちろん、そのアーティストのことが嫌いになる人もたくさん生まれましたが、別に構わない、曲や詩が素晴らしいから好きなんだというファンもたくさんいて、堂々とコンサートに出かけていきます。

……と、ここまでが僕がみた夢の話です。

あくまで夢の話です(笑)。真顔で言っていたら暴論です。

ただ、僕たちは「違い」をあえてはっきり説明し認識することで、生き方や価値観の異なるものを許すことができるんじゃないかと思うのです。自分と同じカテゴリの存在だと思うからこそ(境界を曖昧にされるからこそ)、その中での違いや逸脱が許せなくなっていく。それを許すことは、一定の「規格」を守って生きている自分の存在を否定することにつながるからでしょう。

これは別に、芸能人との間のことだけではないと思います。ここのところ、でやたらと「多様性」が叫ばれています。たとえば、グローバル化で民族や宗教の垣根を越えると、そこにはいろいろな文化や価値観があります。そして、その中には受け入れがたいものもいっぱいあるでしょう。

それを、同じ人間だからといって「境界をなくそう」「ひとつにしよう」というのには無理があります。「違いなんかないんだ」と言って無理に「同じ」にしても、結局はそこから変な憶測や差別意識が生まれ、排他的な言動が飛び交うことになってしまうのだと思います。この「違い」は、同じ民族や国民の中にもたくさんあります。LGBTの問題などは、みんなが「違い」をきちんと知って理解しあえて明確化することで、お互いが受容できる社会ができつつあります。

「多様性」を促して価値があるものにしていくためには、「違うもの」をあくまで違うものとして認め、その違いをしっかりと理解した上で共存することが必要です。もちろん、異なるもが同じ時間や空有感を共有することで、それぞれの「自由」は摩擦をつくりだし、お互いに我慢したり譲り合ったりしなければならない「制限」も生まれてきます。それでも、「違いと共存できる」ということが一人ひとりの心の余裕や選択の自由、さらには自分という存在への肯定につながっていくのだと思います。

ある夢を見た、ということから、ちょっと大げさな話になってしまいました。

(若新雄純=文)