トランプ米大統領が就任早々、通商問題で動き出しました。1月23日には環太平洋経済連携協定(TPP)交渉離脱の大統領令に署名し、北米自由貿易協定(NAFTA)を再交渉する意向を表明しました。そして、日本の自動車市場や自動車産業を標的にしたコメントを口にしています。

 1990年代半ばまで日米貿易の歴史は、摩擦の歴史でもありました。以下、日米貿易摩擦を振り返っておきましょう。今回は前編で1980年代までです。

基本的には米側が不満を持った

 日米貿易摩擦は、日本から米国への輸出の総額ないし特定品目の金額/数量が相対的に大きく、逆に米国から日本への輸出の総額ないし特定品目の金額/数量が小さいことから発生しました。基本的に、米国が不満を持ち、日本に改善を要求するという構図でした(後述する日米構造協議は米側にも原因を求め、それらの改善を目指すという意味で画期的ではあった)。

 近年では、1960年代後半に日本の繊維輸出が問題となり、1972年(自民党佐藤/共和党ニクソン、当時の日米政権、以下同)に日米繊維協定が締結されました。1977年(自民党福田/民主党カーター)には鉄鋼・カラーテレビで日本が対米輸出自主規制を導入しました。1980年代(主に自民党中曽根/共和党レーガン)に入ると、自動車や農産物(米、牛肉、オレンジ)の日本の輸入が問題とされました。

 レーガン政権下での急激なドル高に対して、1985年9月には日米を含む主要先進国によるプラザ合意があり、ドル安誘導が行われました。1986年には日本の内需拡大や市場開放を提言した前川レポートが発表されています(同レポートは後のバブル経済へとつながる)。日米半導体協定の締結もこの年でした。

「ジャパン・バッシング」の時代へ

 ドル安・円高の進行や日本の各業界の努力にもかかわらず、日米貿易不均衡はほとんど修正されませんでした(当時、ドル安になっても米国の貿易赤字が減らず、為替レートの変動が貿易収支に影響するまでタイムラグがあるために発生する「Jカーブ効果」という言葉が流行した)。

 そうした事態にいら立ちを隠せなかった米国は、1988年(自民党竹下/共和党レーガン)に包括通商競争力法を制定。その中で1974年通商法の対外制裁に関する条項を強化したスーパー301条を導入し、一方的な制裁の発動を可能としました。日本でも衛星やスパコンなどいくつかが特定されましたが、日米間で合意が成立して制裁発動は回避されました。換言すれば、発動回避のために合意を強制するだけ効力があったと言えます。

 さらに、対外収支の不均衡は貯蓄と投資のバランスを含めた経済構造に原因があるとして、1989年(自民党海部/共和党ブッシュ父)に日米構造協議がスタートしました。そこでは、日米の貯蓄・投資パターン(日本の貯蓄過剰、米国の投資過剰)のほか、日本の流通や商慣行、米国の企業行動や労働訓練などが俎上に上りました。

 この頃が、日米貿易摩擦が最も激しかった時期でしょう。1979年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が日本の経済的成功を米国への教訓としたのに対して、この頃は日本を経済的な「敵」とみなして、「ジャパン・バッシング」(日本たたき)という言葉がはやり、「Containing Japan」(日本封じ込め)や「The Coming War With Japan」(第二次太平洋戦争は不可避だ)といった危ないタイトルの雑誌記事や書籍も目に付くようになりました。

(株式会社マネースクウェア・ジャパンチーフエコノミスト 西田明弘)