『シェーン』(1953)より
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 過去の名画を振り返るとき、変わらない良さを再認識する一方で、自分が初めてその映画を観たときとは全く違った視点から見えてくることがある。40代の筆者が子供の頃にはテレビで何度も観る機会があった西部劇『シェーン』(1953)も、そんな一本だ。(文・今祥枝)

 ジャック・シェーファーの小説を、『陽のあたる場所』(1951)や『ジャイアンツ』(1956)でアカデミー賞監督賞を受賞したジョージ・スティーヴンスが映画化。南北戦争後の西部に暮らす、マリアン(ジーン・アーサー)とジョー(ヴァン・ヘフリン)の夫婦と幼い息子ジョーイ(ブランドン・デ・ワイルド)のスターレット一家。厳しい大自然と牧場主の横暴に苦しい生活を送る中、流れ者のガンマン、シェーン(アラン・ラッド)がたどりつく。ジョーイを筆頭に一家と仲良くなるが、悪徳牧場主ライカー(エミール・メイヤー)らと農民たちの関係が悪化し、シェーンは単身でライカー一味との対決に向かう。

 西部劇ではあるが、ガンアクションは非常に控えめ。公開時に“新たな西部劇”と呼ばれたというが、寡黙なガンマンが少年と心を通わせていく過程やマリアンとの淡い慕情、それとなく妻の心情を読み取る夫ジョーの複雑な感情の機微など、スティーヴンスによる人間ドラマは年を重ねるごとに奥深さが増す。ジョーが妻に良い暮らしをさせてやることのできない自分を不甲斐なく思う気持ち、男としてシェーンに抱く好感と自分にはないものを持つ者への憧れ(多少の劣等感)、同時にライカーに対して最後は命を懸けて闘おうと決意するジョーは、小市民の精一杯の美徳が詰まったキャラクターだとも思う。昔はシェーンがかっこよくて好きだったが、今はジョーの方により親しみと共感を覚える。

 もちろん、ジョーイの目を通して描かれるシェーンのかっこよさは問答無用だ。ライカーらの横暴がエスカレートし、ライカーが殺し屋ウィルソン(ジャック・パランス)を雇って本気で農民を追い出しにかかる中、シェーンが酒場でライカーやウィルソンを早撃ちで倒す一連のシークエンスの緊迫感とカタルシスは絶品。これぞ西部劇の醍醐味なのだが、ここに至るまでにやすやすとは銃を抜かないシェーンだからこそ、この大一番での凄技が際立つのは言わずもがな。いわゆる弱きを助け、悪党を成敗し、黙って去っていくというシェーンは王道の西部劇のヒーローの姿であり、この後の多くの作品に影響を与えることになる。アラン・ラッドが一世一代の当たり役であることは確かだが、謎めいた殺し屋を演じるジャック・パランスの不気味な存在感は群を抜いており、出番は多くないがいつ見てもため息が出るほどクールだ。

 もう一つ、昨年4月にデジタルリマスター版が公開された際に、本作を初めてスクリーンで観た私は、記憶の中にあるより何百倍ものロケーションと映像の美しさに感嘆した。ワイオミング州の西部、グランドティトン山がそびえるジョンソン郡の風景は、水平線がすっとスクリーンを横切り遠くまで見渡せるスケール感に、冷たく澄んだ空気が肌で感じられるような臨場感、そしてヴィクター・ヤングによる牧歌的かつ雄大な楽曲には、思わず涙がこみ上げてくるほど心揺さぶられた。

 こうした時代を超えて色褪せることのない普遍的な魅力は、いくらでも語れるという感じだが、本作を不朽の名作たらしめている理由はラストシーンの秀逸さにある。それは時代に取り残され、滅びゆくものの美学をシェーンの生きざまに見ることができるからだ。無法者が闊歩する時代は変わりつつあり、シェーンのような存在もまた時代遅れになりつつある。これは、クリント・イーストウッドの『許されざる者』(1992)の主人公などにも通じるのだが、凄腕のガンマンが銃で行う“正義”は終焉を迎え、フロンティアが新たな時代へと移り変わる中で、シェーンの居場所はもはやなく、そのことをシェーン自身が一番よくわかっているのだ。シェーンは農家の暮らしを一時的に体験し、平穏な日々に幸せを見いだした瞬間もあっただろうが、いくら銃を封印したとしても農民として生きていくことはできない自らの性(さが)を自覚しているのだ。なんと悲しい運命なのか。

 このラストシーンについては、現在に至るまで一つの論争がある。少年に見送られて馬で去っていくシェーンが、実は既に馬上で死んでいるとする解釈だ。その根拠は複数あり、『交渉人』(1998)の中にもシェーンの生死について議論するシーンがあることは映画ファンの間でも有名。確かにシェーンはライカーとの対決で負傷しているが、個人的には前述のように、シェーンのようなガンマンの終焉と新たな時代の幕開けという過渡期を描いた映画であり、シェーンは歴史の中に消えゆくものの象徴なので、この時点での生死はあまり重要でないようにも思う。原作では、成長したジョーイが風のたよりでシェーンの死を伝え聞くそうだが、私としてはシェーンがどうなったのかは観客各々の想像に委ねられる形が良い気がする。

 一方で本作を現代的な視点から見ると、銃の描写には少なからず驚かされるものがある。ラストシーンと対になる冒頭のシーンで、彼方からシェーンが馬に乗って近づいてくるのをジョーイが発見する。この始まりの自然を捉えた映像は息をのむほど美しいのだが、ここで幼いジョーイが体に似つかわしくない長身の銃を構えている姿に、昔観たときは何の疑問も抱かなかったが、昨年観た際には想像以上にぎょっとしてしまった。当時、このような土地でサバイブするためには、子供の頃から銃の扱いに慣れなければならないのは当然で、頼りになるのは自分だけという考え方も十分に理解できる。『シェーン』にはアメリカという国家の成り立ちと銃の関係性、そして自衛・自警における根本精神を再認識させるものがあり、これは近年の『ボーダーライン』(2015)や『最後の追跡』(2016)などにも通じるだろう。もっとも、劇中でシェーンは早撃ちに憧れるジョーイに対して、「銃は使う人の心がけ次第だ」といった台詞を口にして諌(いさ)めるシーンがある。また、ジョーイがバンバンと口で銃を撃つ真似をしながら騒々しく遊ぶ場面では、マリアンが「静かにして」とややヒステリックに叱りつけるなど、銃を諸手を挙げて肯定しているわけではない。

 そもそも論として、この開拓農民たちの自衛・自警の精神の正当性・必然性も、この土地は誰のものであったのかを考えると複雑だ。ライカーたちは先住民から土地を奪ったのであり、そこに入植した開拓農民が5年耕作すれば一定の土地を所有することができるとする当時の法律は、ある種のアメリカン・ドリームの原型だとも思うが、大人になって背景が見えてくると単純な勧善懲悪として捉えることは、本作に限らず西部劇全般において難しい部分もある。もっとも映画とは、そうした時代や社会の変化を反映して、その時々でさまざまな面を見せながら生き続ける芸術なのだとも思う。

 さて最後になったが、本作で最も有名なシーンといえば、ラストで去りゆくシェーンの小さくなる後ろ姿に、ジョーイが「シェーン、カムバーック!」と呼びかける声が山々にこだまする幕切れである。原語通りなら「戻ってきて!」と訳されるわけだが、デジタルリマスター版の新録吹替版(翻訳:岸田恵子 演出:清水洋史)では、「また会えるよね!」となっているのが興味深い。昨年行われた翻訳セミナーで伺った岸田氏の解説によると、この直前にシェーンがジョーイに「強い人間になれ。そして2人のことを守ってやれ」と言い、「うん、わかった」と答えるやりとりがある。そのためジョーイはもうシェーンに頼ることはできないことを認識しており、本気で「戻ってきて」と言ったわけではないと解釈したという。それでも別れがたく、期待はしていないが「また会えるよね!(「?」ではない)」とダメ押しするのだが、無言で去りゆくシェーンに対して、ジョーイは最終的に「さようなら(グッバイ)、シェーン」と別れを告げるのだった。ここは従来のように「カムバーック!」のママで良いのではと思う人もいるだろうし、賛否あるだろうが、このように翻訳者・スタッフの解釈や思いが反映されることを知ると、作品に対する理解が深まることもあるだろう。字幕・吹替の意訳や誤訳への指摘が昨今はことさら話題になることが多いが、誤訳はともかく翻訳に「絶対的な正解はない」という大前提を今一度思い出させてくれる事例だ。