不思議なもので、忙しいときというのは、いろいろな仕事が集中してやって来るものです。暇なときは全く仕事が来ないこともあるのに・・・。どうもシーズンというのは、緩急があるものであるようです。

 1月22日が日本学術振興会・東京大学「ひらめき☆ときめき」安田講堂での管弦楽教室、24日が現在進行中の金子兜太さんとのCDブックコラボレーション、と詰めた本番が続き、連載入稿がしばらくできない状態が続き、続稿をお待たせしてしまってすみませんでした。

 私たちの眼球は「白目」の真ん中に「黒目」がありますが、東京都内にもなぜか「くろめ」ならぬ「目黒」そして「しろめ」ではなく「目白」という地名があります。いずれも「目黒不動」「目白不動」と、不動明王をお祀りするお寺さんが鎮座ましましている。

 年末年始からこの「めぐろ」「めじろ」なる地名の周辺を考えているわけですが、実は江戸には「三色不動」といって、白と黒以外に、もう1つ、色のついた目のお不動さんがありました。

 みなさん、これ、何色だと思いますか?

 実は正解は、「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」の中にあるのですが、まずは一度考えてみていただければと思います。

 目赤不動?

 目橙不動?

五色ではなく三色

 「江戸には五色不動がある」

 という話を聞いたことがおありの方は少なくないかもしれません。でも実は、この「五色不動」、明治以降になってから宣伝を当て込んで作られたというのが実のところらしく、天保あたりの川柳に

 「五色にはふた色足らぬ不動の目」

 と歌われているように、実は江戸時代に「色目」がついていたお不動さんは、目黒、目白ともう1つ、3つしかありませんでした。

 皆さんは、「目(*)不動」の(*)の部分、何色と思われましたか?

 正解をお見せしましょう。

駒込南谷寺「目赤不動」


 目赤不動尊、だったんですね。

 文京区本駒込の南谷寺は、東京大学本郷キャンパス前を通る17号線、つまりかつての中山道ですが、ここを板橋方向に進んだ先にあり、私の研究室から車なら5分とかからない距離にありました。

 が、全く知りませんでした。

 今回この連載のために5つのお不動すべての故地を訪ねたのですが、いずれも東大の2つのキャンパス、本郷と駒場を往復する途中や近くにあり、日常的に行き来する道からちょっと入ったところにすべて所在していたことに、大変驚かされました。

 「目赤不動」駒込の南谷寺は、元来は伊賀の国、赤目山で修行した僧・万行和尚が下駒込、現在は「動坂」と呼ばれる旧「不動坂」近くに庵を結んで「赤目不動」として不動明王を信仰していたのを、鷹狩りの途中でこの地に立ち寄った3代将軍家光の目に留まり現在の場所に移設、目黒、目白とならんで「目赤不動」と称するように命じられて現在に至ると伝えられます。

 鷹狩り・・・そう言えば目黒も鷹狩りの名所でした。このポイントは実は後で利いてきます。

 さて、伊賀の赤目といえば忍者の里で、その修行の場「赤目四十八滝」が知られますが、この地名はもう1つ、これに取材した小説で映画化もされた「赤目四十八滝心中未遂」でご存知の方がいるかもしれません。

 実はインテリの主人公が偽悪的に苦界に身を沈めつつ、ついにはそれに徹し切れない過程を描いたゴリゴリの純文学作品なのですが、筆致の卓越した物語として読ませてしまい大衆小説向けに設置されたはずの「直木賞」を受けている。

 この小説の作者、車谷長吉(くるまたにちょうきつ)さんとはいろいろ思い出があります。本名を車谷嘉彦(しゃたによしひこ)といい、播州姫路の出身、慶應義塾大学独文科出身の俊才なのですが、1980年代の彼はぱっと見たところ「カタギ」に見えない、独特の風貌と雰囲気を醸し出す人でした。

車谷さんの思い出

 30代の大半を尼崎や西宮のタコ部屋を点々とする生活で過ごし、私が彼と知り合った頃は42、43歳だったと思いますが、そのタコ部屋生活から再び東京に呼び戻され、彼を支援する人たちに仕事の場を与えられてフリー編集者として生活の資を得ながら、営々と小説を書いていました。

 すでにみんな亡くなったので、書いてしまってかまわないと思います。当時の車谷さんは、西武セゾングループの50年史「セゾン50」というものの編集を担当し、多木浩二、大澤真幸、上野千鶴子といった人たちの原稿や座談を取りまとめていました。

 この人は小説家で、いずれ大きな仕事をするのだ、といった話を、当時は20歳そこそこだった私も最初から聞いていました。

 西武セゾングループを率いておられた堤清二さんが、車谷さんの才能を見込んで、応援していたのです。堤さんは膨大な数のこうした影の支援をしておられ、かつそのほとんどすべてを表に出されず、黙って逝ってしまわれました。

 表で話してしまうと堤さんの趣旨には反するかもしれませんが、芸術家だって霞を食べては生きていけません。また口糊するための仕事に疲弊して作品が生み出せなくなってしまっては元も子もない・・・。

 私が東大に採用されたのは、これに近い面があったと率直に思うので、はっきり書きますが、そういうバランスを考えて、実に絶妙の、匿名の貢献を山のようにされていた。

 私はこの時期、やはり堤さんが出資されていた、作曲家武満徹の名前で発行していた同時代音楽の季刊誌「ミュージック・トゥディ・クオータリー」を実質的にかなり好きに編集させてもらっており、日常的に「A出版企画(仮名)」の編集部で車谷さんと顔を合わせていました。

 いがぐり頭に茶色のレインコート、といった風体が多かった車谷さんは、一目見て普通の人ではありませんでした。しかし、昼間編集部で見るときは、どちらかと言うと引っ込み思案で、優しそうな目をすることもある、無口で控えめな印象でした。

 ところが、これが夜、酒場で会うと、全く違うんですね。典型的にとぐろを巻く、相当タチの悪い酔っ払いだった。

 からむ、ねばる、毒づく・・・。

 自ら「反時代的毒虫」と称していた車谷さんでしたが、まさに毒虫というか、カフカの小説「変身」の毒虫が人間の格好をしたらこういう感じかしらん、と問わず語りにも伝えてしまうような悪い酒だった。

 すでに音楽の仕事を始めながら、大学では物理を学んでいた私を、酔った車谷さんは徹底して「上澄み」として否定してきました。

 否定するならするで、一言否定しておしまいにしてくれればよさそうなものなのですが、そうではない。いつまでも解放してくれません。

 かなり後になって分かったことですが、彼自身が実は浮世離れしたインテリ上澄みというコンプレックスが強かったんですね。でも当時はそうは見えなかった。

 やくざと言うか、キビシイ生活が長かったおっさん、とりわけ彼より1つ年下だった中上健次を相当意識していた個人的印象を持っています。

 中上の名を出すと、ひと際ねちねち絡まれた記憶による、勝手な個人的印象に過ぎませんが・・・。

中上健次と車谷長吉

 車谷さんが東京を去って関西のタコ部屋を転々とするのは、中上が「岬」で戦後生まれ最初の芥川賞を取った時期、中上の「枯木灘」が公刊され反響を呼んだ時期、車谷さんはそこに描かれた肉体労働者の生活をなぞるかのように淀んだ場末の生活でのた打ち回っていました。

 そして、中上が「地の果て、至上の時」で彼の「路地」=被差別部落地域が経済開発で消滅する過程を描いた頃、車谷さんは東京に戻って作家の生活に再び入ったようです。

 中上が「軽蔑」を書いて大きな方向の変化を見せかけた矢先、癌のため46歳で亡くなったのが1992年。その翌年、車谷さんは「鹽壺の匙」で三島由紀夫賞などを受けて作家としてすでに47歳という遅まきの実質デビューを飾ります。

 このとき思ったのは、ライバルのチャイコフスキーが亡くなった後、精神的に自由になって創作が飛躍したロシアの作曲家リムスキー=コルサコフのことでした。

 ティーンの頃から全く遠慮を知らず、枕詞「生意気な」が常にくっついていた伊東君こと私は、ちょうどこの頃、内外でコンクールその他のキャリアが積み重なり、音楽家として自立しつつあった20代末でした。

 東フィルでの副指揮者生活など修行時代の総決算と思っていた松平頼則「源氏物語」のプロダクションに指揮・芸術監督として責任を持って取り組んでいたのですが、その制作を古いなじみのA出版企画が請け負ってくれていました。

 ある日、編集部で久しぶりに顔を合わせた車谷さんは、私にも「鹽壺の匙」を献本してくれました。処女短著を正味で喜んでいた彼の、やや含羞を帯びた目を思い出します。1993〜1994年頃のことです。

 車谷さんが本当の意味でエスタブリッシュしたのは「赤目四十八滝」で<直木賞>を受けたときと思いますが、これは皮肉だなと思いました。

 率直に、車谷さんくらい知行合一で純文学を絵に描いたような人生の書き手は少ないと思うのに、彼が手にしたのは「直木賞」、この回の芥川賞は花村萬月・藤沢周という顔ぶれで、これでは授賞が逆ではないか、といったことも囁かれた記憶があります。

 「赤目」を一読したのは直木賞を受賞してから後でしたが、さらにその思いを深くしました。

 浮ついたインテリを自覚しつつ、それを否定して生きようとする自分自身の否定という、まさに車谷さんの本質的な問題を正面から描いた「赤目」が、巧みな物語として「直木賞」を受けた、ということ自体が、悪い冗談のように思われました。

 「赤目四十八滝心中未遂」は直木賞のほか「伊藤整文学賞」も受賞しますが、彼は「伊藤整とは文学感が違う」としてこの受賞を拒否しています。表では「伊藤が『私小説』を否定していたからだと車谷さんは言うのですが・・・。

 仮に「車谷さんは直木三十五の文学観と相容れるんですか?」と飲み屋で突っ込みを入れたなら・・・そういうことは実際にはなかったけれど・・・彼はどういう反応を見せたでしょうか。

 少なくとも、車谷さんは三島由紀夫賞を受けており、三島は私小説というものを全く評価していなかった。

 そのあたりの、どうにも煮え切らないような部分が、そのまま作品として結実しているのが「赤目四十八滝心中未遂」であるような気がしてなりませんでした。

 で、そういうある意味「中途半端なあり方」そのものが、たぶん車谷さん自身の文学の本質に関わるように思いました。

 また、どう考えても「芥川賞」の純文学の人が「直木賞」にノミネートされ、実際にそれを受けるという選択を、結果的にしたのも、人間の弱さそのものを自演しているようで、矛盾を生きる車谷さんにはふさわしい矛盾ではないか、などと思ったものでありました。

陰陽五行説とお不動さん

 目黒、目白に続く第3の「お不動さん」が「駒込の目赤不動」、大本は伊賀忍者の里に根を持つ「赤目不動」であったという話から、車谷さんの話に大きく流れましたが、実は脱線のようで脱線ではない面があります。

 実は「五色不動」の話題は私が現在進めている俳人、金子兜太さんとのコラボレーションにつながるのですが、車谷さんは俳句にも通じており、また俳句に関連していくつか訴訟沙汰のトラブルも巻き起こしたりもしています。

 今それらに深入りする紙幅はなく、機会があれば別に触れたいと思いますが、駒込の「赤目」までが江戸時代に実在した三色不動であるのは「黒目」「白目」そして充血した「赤目」まで現実の人間の目でも見られるものです。

 ちなみに「目白不動」は現在の目白駅とか豊島区に現存する高田の金乗院の所在地ではなく、江戸川橋から「目白坂」を上がったところ、椿山荘に程近い現在の文京区関口、旧関口駒井町で、目赤不動同様「文京区内」で非常に近い。

 実は私は、この「文京区関口」から上がってすぐの文京区目白台所在の「東京大学旧医学部付属分院跡地」目白台キャンパスに足かけ12年、1人で研究室を構えて、このキャンパスを大学のために守ってきた経緯があります。

筆者が12年間独りで在勤していた東京大学「目白台」キャンパス。92年間病院があったため土壌は指定有害金属で汚染されまくっていたが、現在は客土で緩和された面がある。ただしその替え土作業では、法で定められた産業医による身体生命安全のための保護指導が一切行われず、責任追及の調査が現在も続いている


 92年間病院が設置されていたために6価クロムや水銀、鉛などで汚染されまくっていた土壌や水質検査結果が一貫して伏せられてきたために、のべ300人以上の学生が何も知らされず法で定められた産業医の保護も受けることなく、汚染土壌の土煙がもうもうと立ち込める替土工事の中に置かれるという、とんでもない事件も発生し、現在も捜査が進んでいます。

 江戸の三色不動が本郷の近隣、ならびに目黒区駒場から程近い目黒不動と、いずれも東京大学に近い立地であるのは、半分は偶然と思いますが、実は深く探っていくと、ある必然が潜んでいることが分かるのですが・・・これはもう少し話が進んでからお話することにしましょう。

 さて、陰陽五行思想でいうところの「五色」とは

 「白・黒・赤」に加えて「黄・緑」の2つがそろって「木・火・土・金・水」に対応するというものです。

 「木=青/緑 火=紅/赤 土=黄 金=白 水=黒」

 として森羅万象を「五行」の変化として捉えようと考えるわけですが、江戸時代には「目黄不動」や「目青不動」は存在していません。

 では「目黄不動」って何なのでしょう?

 あるいは「目青不動」とは?

目白や目黒は元来の地名とされるが、目赤という地名は残っていない。駒込の南谷寺


(つづく)

筆者:伊東 乾