【コラム】産声を上げた鬼木フロンターレ…小林新主将のもと、いざ悲願達成へ

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 新たなシーズンへ向けて鋭気を養うオフに入っても、胸の中に渦巻く悔しさは晴れなかった。再びボールを蹴り始めた今、さらに増幅されて体を突き動かす源にもなっている。宮崎県内で行われている、川崎フロンターレの第1次キャンプ。今シーズンから副キャプテンを務めているMF大島僚太が、すべての選手が抱く思いを代弁した。

「天皇杯を取れなかった悔しさはすごく残っています。オフの間もそういう思いはありましたけど、実際にキャンプが始まって、それが活力になっていますね」

 元日に行われた第96回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝。延長戦にもつれ込む死闘の末に、川崎は鹿島アントラーズに屈した。明治安田生命Jリーグチャンピオンシップ準決勝に続いて、同じ相手にチームの悲願でもあるタイトル獲得への夢を断たれた。その瞬間に、ひとつの時代が終わりを告げた。

 2012シーズンの途中から指揮を執り、攻撃的なサッカーを独特の理論でさらに進化させた風間八宏監督(現名古屋グランパス監督)の退任。前人未踏の3年連続得点王を獲得したFW大久保嘉人(現FC東京)の退団。コーチから昇格する形でバトンを託された鬼木達新監督はこの時すでに、新生フロンターレのデザインを描いていたのかもしれない。

 新チームになって初めて行ったミーティング。42歳の青年監督は結果に対する責任は自らが取るとした上で、選手全員に「責任感を持ってほしい」と熱く訴え、新たなキャプテンにFW小林悠を指名した。ゲームキャプテンを務めた2007シーズンから、ほとんどの試合で左腕にマークを巻いて戦ってきたチームの象徴、MF中村憲剛から大役が禅譲された瞬間だった。

 小林をサポートする副キャプテンには前出の大島、GKチョン・ソンリョン、DF谷口彰悟が就任。体制を一新させた意図を、鬼木監督は「決して(中村)憲剛がどうのこうのではない」と断った上でこう続けた。

「(小林)悠自身が昨シーズン、責任感をもってプレーしていた。常に100パーセントの状態でトレーニングに臨む、といった責任感をいろいろな選手に分散させたかった。憲剛自身も昨シーズンのMVPを獲得したことで注目を浴びるし、(大久保)嘉人が抜けたことで背負うものもさらに多くなる。憲剛の立場で言えば、そういう役職がなくてもやってくれる。その意味では悠と憲剛、2人のキャプテンがいるようなもの。より層が厚くなったと僕は思っています」

 発表する前に、指揮官は中村にその旨を伝えている。中村自身、拓殖大学から加入して7シーズン目だった昨シーズンの小林に、特にメンタル面で成長の跡を感じていた。自分が先頭に立って引っ張る、という意思が最前線から伝わってくる。天皇杯決勝後は悔し涙も流し、タイトル獲得への思いをいっそう強めた小林に、キャプテンを引き継いでほしいとも考えていた。

 無名の存在からハリルジャパンに選出されるまで成長した小林の下には今オフ、複数のチームからオファーが届いていた。中には破格の年俸を提示してきたチームもあった。お金に代えられないものを、川崎というチームでもらってきたんじゃないのか――。残留だけでなく、キャプテンを継いでほしいと熱く訴えたのも実は中村だった。同じ思いを抱いていた鬼木監督から事前に相談された時、36歳のレジェンドは「そうするべきです」と快諾している。

「すごく嬉しかったですね。何も言われずに、となれば選手としては『何だよ』となるかもしれない。オニさん(鬼木監督)は自分の意見もしっかりと聞いてくれたし、最高の形でバトンを渡せたと思っています」

 小林自身もケガでチャンピオンシップの鹿島戦を欠場し、チームが鹿島に苦杯をなめた瞬間を悔しさとともに脳裏に焼きつけながら、最終的に残留を決めた。中村から思いを託されていたこともあり、その時からキャプテンに就く決意も固めていた。

「(中村)憲剛さんの次は、年齢的にも自分かなと思っていたので。いつまでも憲剛さんばかりに頼っていてはいけないと思っていたし、だからこそ昨シーズンは(谷口)彰悟や(大島)僚太と『自分たちがチームの土台をしっかり作っていこう』という話もしていた。そういうところから、少しずつ意識が変わってきたのかなと」

 5年を一区切りとする風間前監督の意思を尊重し、退団を認めた昨年10月中旬から、川崎の庄司春男取締役強化本部長は「風間監督が築いたサッカーが川崎のスタイルであり、それを継承するのが基本路線」と明言してきた。川崎でプレーした2006シーズンに引退して指導者に転向し、2010シーズンにはトップチームのコーチに就任。風間体制を縁の下で支えてきた鬼木氏は、オファーを受けた瞬間には覚悟を決めていた。

「風間さんの下でずっとやってきたのは僕ですし、実際に返事をするまではちょっと時間がありましたけど、心の中ではすぐに決まっていましたね。やってやろう、と」

 ボールを「止めて、蹴る」を徹底して繰り返す風間スタイルは、例えば「フリー」の定義においても他チームとは一線を画す。味方がマークされていても、パスの出し手と受け手が意思を共有していれば「フリー」となる。そのためには、ピッチ上の全員が常にボールへ関与し続けていかなければならない。

 こうした基本コンセプトやイズムは、クラブ設立から20年という時間をかけて手にしたDNAとしてもちろん継承していく。ただ、日々の練習から前任者とまったく同じことはできない。築かれた土台に独自の彩を加えていってほしい、と藁科義弘代表取締役社長は初めて監督業に挑む鬼木氏の背中を押す。

「我々は風間前監督のやり方でここまで来たし、それをさらに高めていくためには、一緒にやってきた鬼木君しかいなかった。ただ、目指す場所は一緒でも、たどり着くまでのプロセスは当然ながら違ってきますから。今まではいわばナンバー2で、心の中で思ってもなかなか出せなかったかもしれませんけど、今は彼がトップなので、考えた通りのことを実行すればいい」

 鬼木監督は市立船橋高校から、Jリーグが産声をあげた1993シーズンに鹿島に加入。19個もの国内タイトルを獲得した常勝軍団の礎になる「究極の負けず嫌いの魂」を伝授した、神様ジーコの薫陶を直接受けた。JFL所属だった川崎へ期限付き移籍した1998シーズンを除いて、鹿島には1999シーズンまで在籍。ジーコの意思を継いで来日したレオナルドやジョルジーニョとともにプレーし、秋田豊や本田泰人といった守備陣と司令塔のビスマルクが守備を巡って言い争いになり、一触即発の雰囲気を充満させながら成長していった日々の練習を、中盤の一員として何度も経験している。

 2000シーズンからは川崎に完全移籍して、J2を戦った黎明期を支えた。現役時代の晩年は、中央大学から加入した中村とも同じピッチに立った。選手としての濃密な経験。コーチとして間近で吸収した風間理論。それらを家長昭博(大宮アルディージャ)や阿部浩之(ガンバ大阪)らが新たに加わったチームに、しっかりと落とし込んでいる。

「僕が大事にしたいのは気持ちの部分。勝利への執着心と結束力を大事にしよう、と伝えてスタートしました。少し縦に速くなる部分を含めてより攻撃的にいきたいし、そういう思いを抱いて今のメンバーが集まってくれたと思うけど、守る時には守れる、という部分も武器にしていきたい。歩んできた歴史が鹿島と川崎では違うし、川崎の良い部分はしっかりと受け継いでいきますけど、勝負というものに対しては、やはり大きく変わりますよね」

 天皇杯決勝を戦いながら、鬼木監督は鹿島の変貌ぶりに何度も驚かされたという。激しさ、したたかさ、そして執念。どれひとつをとっても、40日前にチャンピオンシップ準決勝で対峙した時とはグレードが違っていた。浦和レッズをアウェイゴール差で制したチャンピオンシップ決勝。開催国代表として破竹の快進撃を続け、決勝戦でレアル・マドリード(スペイン)と白熱の死闘を演じたFIFAクラブワールドカップ。激闘の連続が鹿島を変えたと、指揮官は思わずにはいられなかった。

「彼らはものすごい経験をしてきたんだなと、天皇杯で感じました。勝つことによって得られるものは、数多くあるんだと」

 自分たちの型にはまれば一方的に試合を支配しながら、ボールを奪えない状況になった時に脆さを見せたのが昨シーズンまでの川崎だった。一転して今年のキャンプでは、球際の攻防における激しさなど、守備に関する注文が指揮官から数多く出されている。中村も「どこでボールを奪うかがフューチャーされている」と、新生フロンターレに早くも手応えを感じている。

 上手くて面白いサッカーに、泥臭さと勝負強さを上塗りしていくために。小林をキャプテンとする体制に刷新したのも、チーム内の世代交代を促進させることに加えて、昨シーズンの悔しさを知る副キャプテンの谷口や大島をも介して、勝つことへのこだわりを浸透させていく狙いも込められている。常に最前線で挑戦し続け、正々堂々と戦っていく「フロンティアスピリッツ」がチーム名称にも込められている川崎は、クラブに携わる全員が同じベクトルを共有しながら、新たな一歩を踏み出そうとしている。

文=藤江直人