1月22日まで行なわれた大相撲初場所で、大関・稀勢の里(田子ノ浦部屋)が悲願の初優勝と、横綱昇進を決めた。日本出身力士の横綱誕生は、1998年夏場所後の3代目・若乃花以来、実に19年ぶりとなる。

 新入幕から初優勝までに要した73場所は史上2番目、大関昇進からの所要31場所は昭和以降で最も遅い「スロー記録」、横綱昇進までも新入幕から所要73場所で史上1位の「スロー昇進」となった。30歳6ヵ月でつかんだ賜杯と綱。その裏側には、亡き師匠の教えを愚直なまでに守り抜いた力士としての誇りがあった。

 逸ノ城(湊部屋)を寄り切り、1敗を守った運命の14日目。帰り支度の最中に、結びの一番で2敗の横綱・白鵬(宮城野部屋)が初顔の貴ノ岩(貴乃花部屋)に敗れた。これまでに次点を経験すること12場所。何度も挑みながら届かなった優勝が、ついに現実のものとなった。

 歓喜を大声で叫んでも、体を震わせて号泣しても、それを笑う者はいなかっただろう。しかし稀勢の里は感情を押し殺し、東の支度部屋で「ま、そうですね......」と口を開くと、「嬉しいですね」とたったひとつの言葉を絞り出した。この不動の姿勢こそ、亡き師匠の教えを守り続けたことの象徴だった。

 その師匠とは、稀勢の里が大関昇進を決めた2011年九州場所の直前に、59歳で急逝した元横綱・隆の里。現役時代は19歳から糖尿病に悩まされたが、徹底した自己管理と、「土俵の鬼」とうたわれた元横綱の初代・若乃花の厳格な指導を受け、苦労の末に30歳11ヵ月で横綱に上りつめた。

 辛抱を重ねた横綱誕生に、当時の人気ドラマ「おしん」を引き合いにして「おしん横綱」と呼ばれた師匠。引退後、1989年に鳴戸部屋を創設してからは、弟子たちにも初代・若乃花から受けた薫陶と自身の経験を徹底的に伝える、厳格な指導を貫いた。生前、師匠はこう話していた。

「相撲の美しさは、勝っても負けても正々堂々の姿勢にある。それが『土俵の美』です。いわば江戸の華ですよ」

 テレビの勝利インタビューはもちろん、支度部屋での新聞記者へのコメントでも、弟子が浮かれたような言葉を発すれば徹頭徹尾、戒めていた。そんな厳格な師匠が、心の底から喜んだ瞬間がある。

 稀勢の里が白鵬の63連勝を止めた2010年九州場所の2日目。双葉山の69連勝に迫る大記録を築いていた横綱を破る大金星にも、稀勢の里は土俵上で表情を変えず、支度部屋でもいつも通り淡々とした口調を貫いた。

「私が嬉しかったのは、あれだけの金星を挙げても稀勢の里がいつも通りの勝ち名乗りを受けたことなんです。本人は喜びを爆発させたかっただろうと思う。それでも自分自身を抑制した。あの姿勢こそ土俵の美なんですよ」

 この時、師匠は部屋に戻った稀勢の里を呼んで、その土俵態度を入門以来、初めて褒めたという。

 その約1年後に師匠はこの世を去る。しかし、5年の歳月を経ても教えは心の中に残っていた。14日目で優勝は決まったが、まだ場所は終わっていない。「気持ちを切らすことはできない」と、あふれ出そうになる感情を右目から流れ落ちた涙だけにとどめた態度こそ、まさしく土俵の美だった。

「自分の中に師匠の教えはしみ込んでいますから。亡くなっても自分の中では今も生きているような感覚がずっとありますよ」

 一方で、継承した隆の里魂が原因で、相撲協会の幹部から苦言を呈されることもあった。「他の部屋の力士と情を通じることになる」と出稽古には否定的だった亡き師匠。稀勢の里も大関昇進後に5度の綱取りに失敗し、その度に「出稽古に行かないからだ」「稽古方法を改めるべき」などと批判されたが、基本的な姿勢を変えることはなかった。それには、「師匠から受けた指導で上を目指したい」という思いがあったからだ。

 稽古場では何度も「俵の外は断崖だと思え」と言われ続けてきた。稀勢の里は千秋楽、左四つで猛然と寄ってきた白鵬を土俵際で左からすくい投げ、初代・若乃花から受け継がれてきた教えを実戦。師匠の教えが正しかったことを証明した驚異の粘りが、横綱昇進を決定づける白星をもたらした。

 23日の横綱審議委員会で満場一致で、師匠と同じ30歳で横綱に推挙され、師匠に対し「感謝しかありません」と頭を下げた。師匠は、亡くなった年の元日に「上昇志向を忘れるな。決して満足するな」と稀勢の里を諭している。その言葉に応じるように、新横綱はこう決意を語った。

「常に師匠の言葉は頭の中にあります。中途半端な気持ちで稽古場にはいられない」

 亡き師匠と横綱の二人三脚。そのドラマはこれから本番を迎える。


松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji