正しく考えられる人の“実践知”とは?

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■規則によって奪われた「思考する力」

私たちは何か起きたとき事態を収拾するために、たとえば「規則」をつくって、それをよくするためにさらなる規則を多くつくる。あるいは「報奨」を与えることで成果が上げることを目指し、さらに報奨を多く与えることで目標を高めていく……、こんな方法をとることがある。

ところが「規則も報奨も、何も変えてはくれない」と心理学者のバリー・シュワルツ氏は語っている。

「規則自体が私たちに命令するわけではないが」「規則は“考える力を奪う”」という。なぜなら、 規則はえてして強制となることがあるからだ。規則や報奨は一時的に状況を改善するかもしれないが、長期的には悪化していく悪循環を生み出すというのだ。

そういえばかつて規則通りの人に遭遇してしまった、こんな場面を思い出した。

その日は早目に駅に着いたので、予約より一本早い新幹線に乗ろうと窓口に寄った。すると、駅員さんが「切符を変更していると乗り遅れそうなので、このまま乗ってください。すいているはずです」と言ってくれた。おかげで、少しゆとりを持って新幹線に乗ることができた。適当に座席について、若い車掌さんにチケットを見せ「一本早い電車に乗りました」と伝えた。

すると、「このチケットはネットで購入したため、車内で変更はできません。乗車券と指定券代1万1000円をお支払いください」と言われてしまう。

特別な割引券でもなく、ただネットで予約購入しただけだ。席だってガラガラだし、何よりも駅員さんにキップを見せた上で「このまま乗るように」と言われたことも伝えていた。どこかに電話をすると、電話越しにオペレーターの女性のような声が聞こえてきた。どうやら上司ではなさそうだ。そして「やはり規則ですから」と、再度支払いを求められた。ところがちょうど現金を持ち合わせておらず、車内ではカードも使えないため「身柄を拘束します」と言われた――。

■臨機応変さが生みだす事態収拾力

結局、目的地で駅員さんが待つ扉で「引き渡します」と言われながら私がホームに降りると、間もなく新幹線は車掌さんを乗せて駅を出ていった。ところが、駅員さんにチケットを見せると「このチケットの何が問題なのでしょうか……?」と聞かれた。駅でのことや、チケット代のことなどなりゆきを説明すると「申し訳ありませんでした。どうぞ、このまま改札をお通りください。機械でも通れます」とあっさりすべてが終わった。関係のない駅員さんに頭を下げられて、こちらが恐縮してしまった。

規則の詳細は不明ながら、“規則どおり正しい”のは若い車掌さんだった可能性もある。けれども、規則に頼りすぎて、その場の状況にあわせた行動を“思考する”力が奪われ、さまざまな人間の手をわずらわせたことも事実だろう。乗車駅と降車駅の駅員さんたちの対応は、状況や同僚の判断をふまえ、規則には書ききれないその場に応じたものだった。

シュワルツ氏は、病院の清掃担当者たちの例を挙げていた。掃除業者の規則に書かれたのは「床を履く」「拭く」「片づける」といったもので、人との関わりについてはいっさいふれていない。ある清掃担当者はロビーの掃除をしなければならなかったとき、看病に疲れた人がそこで仮眠をとっていた。だからその日は、その場では掃除機をかけなかった。

あるいは、付き添いの父親がうたた寝の間に病室の掃除をしたら、掃除をしていないと言われた。本来は1度だがその日は2度掃除をした。

ここには、規則では表しきれない人の感情や倫理観が絡んでいる。疲れた人が寝ていたら、その日は音の出る掃除をしないくらいの気配りは仕事でも必要だ。人への配慮や関わりは、必ず仕事への見返りとなって自分に戻って来るものでもある。

「私たちは規則に頼りすぎることで臨機応変に状況から学ぶ機会を失い、倫理的技術を衰えさせてしまいます」とシュワルツ氏は話す。

周りの人との関わりを大切にすることで生み出される仕事の成果もある。それはマニュアルや規則には書ききれない、人や状況が組み合わさった複雑なパターンの中で生じるものだ。自分の考える力を磨き、そのときに必要な対応をすることが、規則以上の事態収集能力につながり、周りも気持ちよくいられるはずだ。

では、報奨についてはどうだろうか。

■報奨で失われる責任感と生じる利益追求

何かをする動機があったとして、別の動機を与えれば、合わせて2つの動機でさらにいいように思えるもの。ところが理由が2つあると、互いがサポートになるよりもむしろ矛盾して、行動が難しくなるという。シュワルツ氏が紹介したこんな実験がある。

スイスで核廃棄物を処理しようとした。心理学者が街頭で世論調査をして「自分の住む地域で」「核廃棄物を引き受けてもよいか?」と尋ねると、50%の人がイエスと解答した。危険なことも所有地の価値が下がることも承知。その上でどこかで処理する必要があり、国民の義務だと考えたからだ。

今度は質問を変えて他の人たちに聞いた。それは「“毎年6週間分の給与を払うので”自分の地域で」「核廃棄物を処理してもいいか」というものだ。これで「国民の責任」と「お金」の2つの理由ができた。だが、イエスと答えた人は25%だけだったという。

なぜだろうか。それは、報奨を与えると言った途端に「自分の責任は何か?」を問うのではなく、「どんな利益を得られるか」と考えてしまうからだ。報奨があることで、仕事そのものへのやる気が薄れて、倫理が失われてしまうのだ。

シュワルツ氏はオバマ大統領の言葉を借りて「利益を生み出すか否かだけでなく」「正しいかどうか判断しなければならない」と話している。絶え間なく与えられる報奨という誘惑のために、利益にばかり目が行って倫理観が薄れ、知らないうちに自ら考える実践的な知恵を失ってしまうという。

どのコミュニティでも、仕事でも、それぞれに日々違った状況で、異なる人たちが活動をしている。すべてが書かれた通り、条件の通りには進んでくれないことは、誰もがご存知の通り。だからこそときには一歩引いて、何かに縛られることで自分の思考が奪われていないかを見なおし、実践的な知恵につなげたい。それこそが使える生きた思考だ。状況に対応していくことに、公式などないのだから。

[脚注・参考資料]
Barry Schwartz, Using our practical wisdom, TED2009

(上野陽子=文)