安倍晋三首相は今年になって憲法改正について頻繁に発言している。

 憲法施行70年の節目や改憲が党是のこともあるが、より強く決意させているのは予測される国際情勢の激動に適切に対応する必要性の認識からではないだろうか。

 元日に国民向けに発表した年頭所感では、昭和天皇の昭和62(1987)年の歌会始における御製

わが国の たちなほり来し 年々に あけぼのすぎの 木はのびにけり

 を引用して、廃墟から見事に復興した日本の姿をお歌いになったと紹介した。

 しかし、伸びた木も成長が止まり、横に枝を広げていくように、この頃から出生数は戦後最低を記録し、バブル景気に沸いた経済は長いデフレの序章となり、日本の転換期になったとの認識も示した。

 それから30年がすぎ、70年間続いた戦後に、激動が押し寄せる予兆があることも事実である。平和の謳歌でやや受動的になっていた日本が荒波に飲み込まれないよう、そして積極的平和外交で国際社会の共生を訴えつつ、他方ではしっかりと根を張る必要性の強調でもあったようだ。

 1月5日の自民党本部での仕事始めの挨拶では、「新しい時代にふさわしい憲法はどんな憲法か。今年はいよいよ議論を深め、だんだん姿、形を私たちが形作っていく年にしていきたい」と語り、「それぞれが責任を果たしていくことが求められている」と議員に自覚を促した。

 その後の役員会ではさらに歩を進めて「戦後のその次の時代を拓く。未来への責任を果たさなければならないと強く決意している」と語り、「本年、・・・日本を世界の真ん中で輝かせるために新たな国づくりを本格的に始動します。この国の未来を拓く1年とする」と、「戦後」に区切りをつけ、「ポスト戦後」の新しい時代を拓くことを明確に表明したのである。

 すべての原点が憲法の改正であることは言うまでもない。

元帥の意に反する「憲法の存続」

 そもそも、現在の憲法がどのようにして出来上がったのか。今では明らかであるが、その嚆矢ともなった江藤淳の『1946年憲法―その拘束』でいま一度確認しておきたい。

 マッカーサー元帥は日本が封建的であるとみていた。

 そこで占領開始直後の東久邇宮内閣の近衛文麿副総理兼国務相を招いて、元帥は「第一、憲法ハ改正ヲ要スル。改正シテ自由主義的要素ヲ十分取リ入レナケレバナラナイ。第二、議会ハ反動的デアル。・・・コレヲ避ケルタメニハ選挙権ヲ拡張シナケレバナラナイ、ソレニハ_板蹇婦人参政権ヲ認メルコト ∀務、物ヲ生産スル労働者ノ権利ヲ認メルコト」(引用は前掲書、以下同)であると述べている。

 続けて、「自分ハ日本ノ憲法乃至法律上ノコトハ宜ク知ラナイ。唯日本ニ戦争ニ乗リ出サシタ権力アリトスレバ、コノ種ノ問題ヲ解決スル措置ヲ講ズベキ権力モアルベキダラウト考ヘル。・・・端的ニ言ツテ、日本ノ議会モ日本ノ官吏モ唯連合国ノ意思ノ下ニノミ存在シ得ルノデアル。吾々ハ日本ノ政府ニ依リ合理的ナ過程ヲ以テ所要ノ措置ガ講ゼラレルコトヲ希望スル」とも語っている。

 「連合国の意思の下にのみ存在し得る」はGHQ(連合国軍最高司令部)が絶大な権力を持っているという圧力にほかならないが、一方では「合理的な過程を以て」というように民主主義的手段を歓迎する意向も示したのである。

 そう言いながら、「之ハデキルダケ急速ニ行ワレナケレバナラナイ、然ラザレバ摩擦ヲ覚悟シテモ吾々自ラ之ヲ行ワネバナラヌコトトナルノデアル」と止めを刺すことも忘れなかった。

 日本は幣原喜重郎が首相となり体勢を立て直して対処する。

 松本烝治国務相が示した私案は「天皇ハ軍ヲ統帥ス・・・」(第11条)、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ戦ヲ宣シ和ヲ講ズ」のように、GHQの絶大な権力を認めつつも、「主権」はあくまでも日本が保持したものとしていた。

 自分の意志を反映していないとみた元帥は、マッカーサー・ノートとして知られる3項目

々聴未寮そ院ε傾弔凌μ海蝋駝碓媚屬砲茲
⊆膰△糧動としての戦争放棄・陸海空軍及び交戦権の不保持
I建制度の廃止・華族は一代限り

 を提示して、下僚に憲法草案の起草を命じる。

 至短期間で書き上げた草案を吉田茂外務大臣の官邸で米側が示す。その検討に与えられた時間は30分。この時、米軍機が爆音をとどろかせて通過する。休憩を終えて帰って来た米側は、外で太陽エネルギーを浴びてきたと発言する。

 米軍機と太陽エネルギーは都市無差別爆撃と第3の原爆を思わせる心理作戦でもあった。さらに場合によっては天皇の安全を保証できない旨も匂わせるなど、脅迫の下に日本側は置かれたのである。

 マッカーサー自身は「どんなによい憲法でも、日本人の胸許に銃剣をつきつけて受諾させた憲法は、銃剣がその場にとどまっているあいだだけしか保たないというのが自分の確信だ。占領軍が撤退し、日本人の思い通りになる状況が生まれたとたんに、彼らは押しつけられた諸観念から独立し、自己を主張したいという目的だけのためにも、無理強いされた憲法を捨て去ろうとするだろう、これほど確かなことはない」と語っており、どこまでも確信犯的行動であったことを示している。

 元帥は日本の占領行政を任されたとはいえ、自分の強権力が滲み出るような形を好まなかったし、プライドも許さなかった。そこで『回想録』では、戦争放棄条項を提言したのは幣原首相であったとしている。

 そうであればこそ、元帥は自分の指示で「主権を放棄させた」ことが明らかになれば、言行に不一致がでる。それを許さないためにも検閲を行わねばならなかった。 

 「合理的な過程」をとるように指示しながら、また、言論の自由を尊重する米国でありながら、現実には検閲で言論を封ずる矛盾にも逢着していたのである。

元帥の甥・大使の謝罪

 2016年11月号の月刊誌『WiLL』は、元駐日米国大使ダグラス・マッカーサー鏡い痢屮泪奪ーサー元帥の非礼を許して下さい」という一文を掲載した。

 大使が昭和35(1960)年2月9日に汎洋婦人友好会理事長であった山野千枝子女史ら7人と会見した内容を、同席した故蜂須賀年子女史が記録した手記である。

 大使は米占領政策の誤りを3点指摘し、伯父の元帥に代わって「日本国民に心からお詫びする」と述べ、さらに「日本は速やかに改憲に着手すべきである」と勧告していた。

 大使は元帥の甥であったので、ざっくばらんにこうした「米国の占領政策の失敗」の話もできたのであろうが、元帥自身もこの会見に先立つ5年前、常宿にしていた米国のホテルに重光葵元外相を迎え、「東京裁判は失敗であった」と悔やんでいたことや、「無理強いされた憲法は捨て去ろうとするだろう」という元帥の思いを知っていたから、占領政策を正面から批判することができたに違いない。

 大使は失敗の第1は日本に「米国流民主主義」を持ちこんだこと、第2は日本の歴史と伝統を無視して「人間天皇宣言」を行わせたこと、そして第3は主権在民の「占領憲法」を強制したことであると説明したという。

 言うまでもなく、日本には日本流の民主主義があり、聖徳太子が定めたとされる「十七条憲法」や、明治になってからの「五箇条のご誓文」、そして明治欽定憲法があった。

 日本流の民主主義は、選挙で元首(日本では象徴天皇)を選ぶ共和政でも、またすべてを多数決で一意的に決める近代的政治技術でもないが、万世一系の天皇が国民統合の和の象徴として、権力者に引きずられず、自然発生的な中心が存在したことが、日本を国家としてまとめていた要因であった。

 日本に僅かしか滞在しなかったヘレン・ミアーズ(『アメリカの鏡・日本』の著者)は、日本では列車に順番に乗るなど、どこへ行っても統制のとれた姿を発見する。そして何か目に見えないが、大きな力が働いていると述懐している。これこそが大御心に魅かれて纏まる日本流の民主主義であったのだ。

 第2の人間天皇宣言とも関連するが、大使は米国流の民主主義が日本に持ち込まれたために「日本国民は心のよりどころを失ってしまった」と述べ、「米国の日本研究が足りなかった」とも言うが、当時に足りなかったばかりではなく、今でも足りていないように思えてならない。

大使による「憲法改正の奨め」

 米国は諸民族の移民で成り立っており、全く異なった国で生まれ育った人々の意見を吸い上げ統合するためには、言論によるディベートと過半数で問題を決する技術的方法しかなかったのである。

 しかし、日本には2000年以上の歴史があり、以心伝心という知恵が根づいており、多数決原理などの技術的方法はもちろんのこと、言葉さえ必要でないくらいであった。

 大使は、主権在民を根本原理として押しつけたために、「国民は個々に頼るより仕方がなくなってしまった」と述べ、核家族化して、日本が日本でなくなっていくさまを見て「かえすがえすも残念なこと」と謝罪し、同時に「米国でも大変心配しているのです」とも語っている。

 第3の憲法問題では主権在民について述べ、「自分一人のことしか考えない利己主義に走り、自分だけの偏狭な考えを正しいものと信じて押し通していかなければ、生きて行かれないことになり、国家もなければ、天皇もない、そして他人も信じることのできぬという不安な状態に陥ってしまった」と嘆く。

 大使は、米国流で(日本)国がまとまると思って、よかれと思ってやったが「統合をバラバラにしてしまうという不思議な反対現象が起こるものであることを初めて知って驚いた」と率直に表明し、また「今日ではお詫びをしてももはやどうにもならぬ状態になってしまいました」と諦観したという。

 ただ、大使の考えと異なり、元帥が憲法を制定し、東京裁判をやったのは、日本が再び纏まって米国に刃向かうことがないように、ばらばらにしたいという意志が占領当時には働いていたからである。しかし、占領が進むと同時に日本人が元帥に示した心を知って、考えが変わったことは確かであろう。

 大使は「日本の皆さんが一日も速やかに現在の占領憲法をとりかえて、日本の輝かしい伝統のもとに立ちかえって、再出発して頂くことです」と願望を述べている。

 大使の発言にすがりつきたい女史たちは「3つの政策が間違っていたということを全国民に知らせ、天皇制の復元や憲法の改正を実現するきっかけにしたいから、アメリカの日本政策は間違っていたという何らかのメッセージを頂けないでしょうか」と懇願する。

 大使は「日本は既に独立した国だから、(依頼のようなことをすると)日本への内政干渉として非難されるでしょう」と丁重に断り、逆に「皆さんや心ある方々が立ち上がって、一日も早くGHQの押しつけ憲法を捨てて、日本の歴史と伝統に合った憲法を制定して昔の姿に回復して下さい」と回答するのが精いっぱいであった。

家庭を崩壊させた現憲法

 家長を中心とした家族制度についても、封建的で個人の自由、中でも女性の自由が制約されているとみた。こうして、憲法24条で、結婚・離婚などが家族の問題から完全に切り離されて、2人だけの自由意思と、両性の平等のみが尊重されるようにした。

 もう1つは女性の社会進出である。かつての日本は「夫が外で働き、妻が家庭で子育て家事を担う」という役割分担が色濃く、専業主婦世帯が共働き世帯を上回っていた。しかし、1986年の男女雇用機会均等法の施行、1999年の男女共同参画社会基本法が施行されて、女性の社会進出が大きく進んだ。

 女性の社会進出度合いが、時折比率ランキングで示される。例えば列国議会同盟(IPU)が2016年2月発表した下院の女性議員比率ランキングでは、日本の女性衆議院議員の比率は9.5%で、191カ国中の156位である。また、経済協力開発機構(OECD)加盟34カ国では最下位となっている。

 ただ、ほとんどの国が法律で割り当てる議席数や候補者の性別の比率を定める形のほか、政党が自発的に定めるなどのクオーター制を採用している。OECDでクオーター制でないのはフィンランド、デンマーク、ニュージーランド、米国、スロバキア、そして日本の6か国だけである。

 これは下院議員という一分野の比率で、女性の社会進出を十分に反映しているとは言い難い。それでも、女性の社会進出が遅れている、もっと進捗を! というメッセージにはなり得る。

 ただ、女性の社会進出を進めることが国家の健全性を維持する唯一の方策であるとばかりは言えないのではなかろうか。過去の例から見ても、別の視点があるように思えてならない。

 一時、専業主婦は社会進出できる能力がないという見方もあったように仄聞したが、偏見であったことは言うまでもない。専業主婦こそが家庭運営の中心であり、多大な能力が要求されていることが分かる。

 日常の衣食住は言うに及ばず、出産、情操を含めた育児、社会生活を含めた子供の人間教育、病気の看護、そして在宅老人の介護など、人生で繰り広げられるすべての事象に関わる大任を果たしていた。

 大変な負担がかかっていたことは確かであろうし、そのことは今日的視点で改善するとして、この専業主婦(今後は専業主夫もあり得よう)は社会進出した女性以上に喜怒哀楽に満ちたものであり、常時、生活の知恵を働かす最高の人生であると言っても過言ではないであろう。

 他方で、共働きしながら生活をエンジョイするために子供はつくらないという、いかにも今風なエリート(DINKS=Double Income No Kids)も多い(「AERA」2016年8月8日号)ようであるが、国家的な視点に立つならば決して歓迎すべきものではない。エリートであるからには、さらに大きな視点で物事を考えてほしいものである。

 家族は夫婦2人だけでは途切れ、無に帰してしまう。夫婦の前後世代が共に暮らす3世代同居こそが望ましいということがはっきりしてきた。

 戦前の日本では子供の面倒も、老人の介護も自宅中心で行ってきた。孫は老人から社会の知恵を吸収していたし、老人は孫から元気を得て、老人ばかりのホームのような味気ないものではなかった。

おわりに

 ジェイソン・モーガンという米国人学者がいる。現憲法について「アメリカの(日本)支配計画書であり、ただの不平等条約ですよ。現在までこの憲法が続いているという事実は、率直に言って『日本の恥』です」と語り、「この憲法を捨てない限り、『戦後』は永遠に終わりません」と忠告する(『WiLL』2016年11月号)。

 日本は現憲法を与えられた時から、「主権」意識を喪失した。軍隊の不保持と自衛権・交戦権の放棄の第9条を「非戦条項」や「平和条項」と呼び、その憲法を「平和憲法」と詐称した。そして、憲法を守っておれば、他国が攻めてくるはずがないとして、「自分の国は自分で守る」ということさえ忘却していった。

 こうして、日本の領土に侵入され、数百人とも言われる日本人が異国に連れ去られた事実が明確になっても、主権を放棄している日本はいまだに取り返すことができない。これが米国であれば、いやどんな小さな国でも、戦争になることを覚悟してでも取り返す努力をするに違いない。

 こうした考えは、日本人の中でも存在する。

 自衛隊が国土・国民を守ると信じ、その一翼を担う栄誉に預かりたいと思って入隊した隊員もいる(伊藤祐靖『国のために死ねるか』など)。しかし、現実の自衛隊は政治主導(シビリアン・コントロール)の下にあり、政治は自衛隊に拉致家族の奪還を求めていないし、現憲法が存続する限り、外交による以外は永遠に取り返せない。

 政府は「国際法上、一般的には、(自衛隊は)軍隊として取り扱われる」とする答弁書を決定(「産経新聞」平成27年4月4日付)した。これは、国際社会には「自衛隊」の概念が理解できないため、外国は一応自衛隊を「軍隊」、自衛官を軍人と見做して対処しているというだけのことで、日本自体はそのようには扱っていない。

 軍隊は予測しない兵器や戦法、つまり想定外への対応が常に求められる。そこで、最小限の禁止事項(ネガティブ・リスト)だけを示し、指揮官に柔軟対応の余地を与えている。ところが、自衛隊では、やってよい事項(ポジティブ・リスト)を示し、それ以外は指揮官に余力があっても対応できない。

 端的な例として、カンボジアPKOでは当初「道路・橋梁の修復」の1任務であったため、国連視察団への給食や負傷者の救助依頼等に対応できなかった。対応したい隊員たちは切歯扼腕し、指揮官がカンボジアの現地から防衛庁(当時)に、そして政府、さらには国連当局と調整して最終的には9任務に拡大した。

 訓練や演習では想定外は対処しないでも済むが、非常時においては想定外でも、「回避する」ことも含めた即時の決心が求められる。回避では任務の遂行ができない、最悪の場合は全滅につながるという場合はどうするか。こうしたことが、ポジティブ・リストの任務付与では解決できない。

 昨年の国会で最大の問題となった集団的自衛権の行使さえまともにできない状況に置かれており、ライフ・ラインの安全確保どころか、国土防衛すら軍隊でない自衛隊では覚束ないというのは言いすぎであろうか。

 有事において国土や国民を守る自衛隊は、「政治」主導の下にある。その政治を動かすのは「国民」である。家族の再興、拉致家族の救出、そして国土防衛の正否もほかならぬ国民の1人である「自分」にかかっているのだという自覚が今ほど求められている時はない。

筆者:森 清勇