全日本プロレスに鳴り物入りで入門した輪島大士は、1986年11月1日、タイガー・ジェット・シン戦で国内プロレスデビューを果たした。
 大相撲時代は天才と称され、一時代を築いた名横綱だけに、プロレス界も破格の待遇で迎えた。早々にリック・フレアーのNWA王座に挑戦させ、スタン・ハンセンと場外ながら引き分けるなど、黄金の出世街道を用意していたのだが…。

 力道山から始まった日本のプロレス界だが、元力士で“頂点に立った”と言えそうなのは、力道山以外だと天龍源一郎ぐらい。
 「力道山没後の日プロを担った豊登や三冠王者となった田上明、同じくIWGP王者の安田忠夫、GHC王者の力皇猛らも成功例でしょうが、人気面などで同時代の選手に見劣りしていた。トップを張ったと言うには微妙なところです」(スポーツ紙記者)
 ほかでは上田馬之助やラッシャー木村、米国で活躍したキング・ハクやビッグ・ジョン・テンタも元力士ではあるが、いずれも関取にまでは昇進しておらず、角界に在籍していた期間も短い。大相撲出身というよりも、相撲経験者という方が妥当だろう。

 そして、これら選手に共通しているのが、動きが硬く柔軟性に欠けるということだ。
 「足の裏以外を土に着けたら負けになる相撲では、動きが前後左右に限られ、体を上下させる動きが少ない。そのため多彩な動きを要求されるプロレスでは、どうしても動きがぎこちなく映ってしまう」(同)

 力道山や天龍にしても、華麗な体さばきやテクニックで勝負するタイプではなく、むしろその“硬さ”を自身の持ち味としたことが成功につながっている。これは角界最高峰である横綱であっても同様だ。元横綱からプロレスに転向したのは、東富士、輪島大士、北尾光司、曙の4人。
 「この中だと総合格闘技やK-1で苦労した曙が、意外とプロレスでは順応しているものの、ほかの選手は残念ながら成功したとは言えません」(プロレスライター)

 プロレスというジャンルは力道山の当時から今になっても、なお世間から“八百長”や“インチキ”とそしりを受けている。最近でも萩生田光一内閣官房副長官が、野党を揶揄して“田舎のプロレス”呼ばわりしたことがあった。
 一方の大相撲はというと、毀誉褒貶がありながらも国技としての地位を堅持し続けている。
 「当時のプロレスファンとしては、そんな大相撲に対するやっかみから、輪島に対して“いくら横綱とはいえこっちでは新弟子だぞ”と逆に見下すところがあった。そのためプロレス慣れしていないが故のぎこちなさを、直情的に『ヘタくそ』となじることになる。力道山が自分の地位を守るため飼い殺しにしたともいわれる東富士や、格闘技での失態が“みそぎ”となった曙はともかく、北尾や輪島はそんなファンの不当に低い評価により、大成を阻まれたという部分が確実にありました」(同)

 とはいえ同じ横綱からの転向組でも、自身の賞賛欲求を満たすため最初からスター気取りだった北尾と、借金などで苦しんだ末にプロレスの道を選んだ輪島では、事情が異なっている。
 「どちらも団体側は、元横綱のネームバリューを活かすため促成デビューとなり、それを多くのファンは“えこひいき”と捉えましたが、少なくとも輪島は真剣に取り組んでいた。ただ、残念なことに入門時すでに38歳という年齢もあって、体がついていかなかった」(前出・スポーツ紙記者)

 練習には熱心に取り組み、また周囲に対しても敬語を使い、関係者たちに食事をおごるなどの気遣いも欠かさなかったという。ちなみに、自分より年下で角界でも格下だった天龍に対し、輪島は今でも「天龍さん」とさん付けで呼んでいる。
 また、天龍もそんな輪島の成功を願い、助力を心掛けており、天龍式の輪島育成計画は“激しい攻め”というかたちで実行された。輪島を容赦なく殴り飛ばし、顔面を蹴り上げることで“大相撲の横綱ってのはこんな攻めにも負けない強い存在なのだ”と、ファンにアピールしたのだ。

 両者初のシングル対決となったのは、輪島の国内デビュー戦から約1年後となる'87年11月7日、後楽園ホール。この試合で天龍は輪島の脚に攻撃を集中し、ふくらはぎ、膝裏、内ももを蹴りまくった。輪島が最後、場外で立てなくなったとき、その太ももはどす黒く腫れ上がっていた。
 16分18秒、なすすべなくリングアウト負けとなった輪島だが、激しい蹴りを受けながらも立ち上がり続けた姿は、これまでの優遇された立場での試合とは一味も二味も異なっていた。

 団体がお膳立てした“身の丈に合わない好勝負”に愛想を尽かしていたファンにとって、この一戦は輪島を見直すきっかけともなった。惜しむらくはこの後、度重なる故障によって体が言うことを聞かなくなり、引退を余儀なくされたことだ。
 それがなければもしかすると、日本プロレス界のトップの一角に、輪島の名前が刻まれていたかもしれない。