「鳥羽伏見の戦い」に 隠された驚くべき真相

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江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
衝撃的なタイトル『三流の維新 一流の江戸』が話題の著者に、「鳥羽伏見の戦いに隠された驚くべき真相」について聞いた。

薩摩藩内には
西郷刺殺を主張する声も

 討幕の勅許を偽造したものの徳川慶喜に「大政奉還」という先手を打たれ、窮して幼い明治天皇を人質とした軍事クーデターという荒っぽい手を用いて「王政復古の大号令」を発したものの、再び慶喜の反撃にあって、岩倉具視と西郷・大久保たちの徳川幕府打倒計画は挫折した。

 クーデターの主役は薩摩と長州であるが、大政奉還の時点で長州藩はまだ公式に「朝敵」であった。

 一方の薩摩だが、そもそも薩摩藩の大勢は、討幕には断固反対であった。
 官軍教育が支配する中で、このことは全くといっていいほど語られてこなかったのである。

 島津久光を筆頭とする薩摩藩の総意は、天皇が徳川家を将軍に任じ、諸大名がその麾下(きか)に列した以上、討幕を企図することは即ち天皇に対する不義であり、幕府を支えることこそが尊皇であるというものであった。

 これは、名分論としても尊皇佐幕そのものであり、大政委任論でもある。
大政奉還の直前に薩長芸三藩の出兵協定が密約として締結されたが、薩摩藩内では反撥が渦巻き、「逆賊の長賊」という言葉が飛び交ったほどであった。

 藩論が分裂していたというより、西郷・大久保たち討幕派が藩内で孤立していたのである。
 必然として三藩の出兵協定は簡単に崩れ、薩摩藩内には西郷刺殺を主張する声さえ表面化していたことを知っておく必要がある。

 藩内身分が遥かに上位の小松帯刀(こまつたてわき)の存在がなければ、西郷・大久保はここで終わっていたかも知れない。
 小御所会議が紛糾した際、西郷の漏らしたひと言が会議の趨勢を決したことを前節で述べた。

「短刀一本あれば片づく」という、最後は何でも武力に頼る西郷の“本性”が発したと思われるひと言である。

 クーデターに失敗した西郷たちは、結局これを実行することになる。
 しかし、事が思い通りに進んでいない状況では、その短刀は一本では済まなくなっていたのだ。
 何十本、何百本もの短刀、即ち、軍事力で幕府を倒すという、本格的な討幕戦の意思を固めざるを得なくなっていたのである。

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