暮れに、明治時代日本で最初に敷設された鉄道について書きました。新橋―横浜間。なぜこのルートで、当時としては陸上最高速の蒸気機関車の鉄路を敷設したのか、しなければならなかったのか?

 答は「グローバリゼーション」にあります。19世紀のグローバリゼーションを見て、21世紀のイノベーション戦略を検討したいと思います。

なぜ新橋か?

 新橋。誰もが見慣れた名前ですが、改めて「新橋」という文字を見てみると「ニュー・ブリッジ」と書いてあります。

 ニューがあるならオールドがありそうなもの。このあたりは中州や埋立地だらけで、橋は山のようにあり、諸説考えられますが、基本的に「江戸の橋」と言えば「日本橋」を起点に五街道のネットワークが走っていますから、

 「日本橋ではなくニューブリッジ」

 としての新橋と考えると、この先の見通しが良い気がします。この日本橋と新橋の間、東海道の最初の数キロの区間が「銀座」にほかなりません。

 江戸時代から栄えた日本橋、銀座界隈。お城に程近く、繁華な街区が切れる端が「新橋」ないし「汐留」エリアで、そこで留まっている「汐」の先は、浜辺に松が生えていた(浜松町)。つまり、空き地が確保しやすかった。

 新橋―横浜間という鉄道の敷設は、江戸文化、東京の最も優れた商品を、盛り場の外れである新橋エリアで列車に積み込んで、黒船のペリー来航以来開港されていた世界への玄関口、横浜港に運んで輸出する鉄のハイウェイだったわけです。

 当初の江戸城というのは、ほとんど海に面したお城だったようです。内堀、外堀というと、開削した「お堀」のように聞こえますが、そもそもの丸の内、千代田界隈は海辺の田んぼとそれに面した高台を「借景」的にお城に見立てたもので、川や中州を掘りや土塁に見立てて築城していったらしい。

 正確な考証は歴史家に任せるとして、今は内陸のように見える「日比谷」は、元来は深い入り江だったものを、一部は護岸工事をして掘りとし、一部は埋め立ててお堀端の道路にした。

 内堀通りが祝田橋で神田川・日本橋川から流れこんだお堀の水を跨いで霞ヶ関方向に伸びる日比谷通りですが、元はこのあたりが河口でここから先は江戸湾の中洲エリア、細長く伸びた陸地が日本橋から新橋まで続き、その先品川→横浜と東海道が点と線で結ばれて成立した様子です。

最初の私鉄はなぜ高崎線?

 江戸の物品を横浜に運んで輸出すると同時に、横浜に荷揚げされる舶来の文物が、一番最初に運んでこられたのもの新橋でした。

 「青い目をした人形」以前に、衣服とか時計とか、もっと普通の舶来品が、汐留あたりで荷降ろしされ、最初に店頭に並んだのは日本橋・銀座界隈だった。江戸時代以来の繁華街は、明治以降、帝都東京で文明開化の最先端を行くことになります。

 それに先んじて最初に洋物が陸揚げされる横浜が、ハイカラな街として発展するのはことの必然であったでしょう。

 最初に開港された横浜というのは、元から栄えていた現在の東神奈川あたりと帷子川を挟んで反対側の、横っちょにある浜辺に過ぎない「横浜村」と伝えられます。

 本来の横浜村は現在の関内駅あたりで、桜木町など湾側は開港後に順次整備、埋め立てられて現在の「みなとみらい」になっている。

 歴史は一貫して持続しているようです。

 暮れに取り上げた「山手線」の起源、中山道と東海道をつなぐバイパスだったとお伝えたわけですが、そのときチラっと「日本最初の私鉄は日本鉄道高崎線」と書いておきました。

 高崎線は「上野」を起点に、現在の三河島や赤羽周辺を通って埼玉熊谷から上州高崎に到達するルートです。

 しかしまた、どうして「高崎線」なのでしょう?

日本初の官製模範工場

 埼玉や群馬、あるいは栃木や新潟方向にも足が伸びる「高崎ルート」。現在でも池袋から「東武東上線」が走っています。

 「東上線」という名前の由来、長らく「東京と上尾でも結んでるのかな」くらいに思っていたのですが、これは「東都と上州を結ぶライン」として計画されたものらしいと聞きました。

 もっとも東上線は「東上鉄道」として明治末年に計画されたもので、やや背景が違っているようですが。

 その「東上鉄道」上州まで届くという当初の計画は途中で止まって現在に至っている。東上線の終点は東武動物公園、小川町あたりで秩父より手前、寄居から先は秩父鉄道などが結んでおり、残念ながら「東上線」は群馬まで届いていません。

 それはそれとして、さて、なぜ日本の私鉄は最初「高崎線」から敷設され、上州と東京を結ぶことが急がれたのか?

 そしてまた、そのニーズはあるとき途中で潰えてしまい、計画路線がつながらないまま、現在に至っているのか?

 答は「文明開化」の大文字のメインストーリー、近代日本国家の主要外貨産物と殖産興業の政策転換にあります。

 いったい「上州」に何があったのか?

 上野と鉄道で結ばれた群馬県には、石炭を燃料に蒸気機関で動く、日本初の官製模範工場が設けられたのでした。

 そう「富岡製糸場」です。

 フランスの技術が移転され、江戸時代から培われた良質な養蚕技術が、蒸気機関を動力源に高速で西洋風の繊維材料として撚糸され、高崎から蒸気機関車で半日程度、朝早く出れば午後には上野駅に着いてる。そういう鉄道路として「高崎線」は敷設されました。

 しかし、糸を輸出するなら、わざわざ上野から江戸市中ならぬ東京都心部を経由して新橋などに運ぶより、高崎を出発してまっすぐ横浜港まで運べた方が合理的です。

 こんな理由で、これまたほとんど何ももなかった荒川の「川口=かわぐち」から、「浮間=うきま」の横をかすめて中山道岩淵宿郊外、赤羽村わきの空き地を経由、板橋方向に伸びる、新しいバイパスが計画された。

 これが岩淵郊外の野原だった「赤羽」を起点に中山道板橋と東海道品川を結ぶ「山手線」計画の真の動機でした。

 こうなると、朝早くに高崎で積荷された洋風の生糸は、昼頃には荒川を渡って赤羽・板橋・目白と進み、内藤新宿を越えて品川からは新橋と横浜を結ぶ官営鉄道、現在の「京浜東北線」と合流、夕方には横浜に到着し、桜木町から積荷が可能。

 実に、一点の無駄もない合理的な物流システムが、上州は富岡製糸場と横浜港とを結んでいることに気づきます。

 本当に合理的です。と言うのも、この開発を指導したのはフランスのブレインで、大革命以来の科学的合理主義を徹底して、フランス国内より良質な蚕を、フランス国内と同一の蒸気動力の撚糸機械で製品化、これをフランス国内とは比較にならない、安価な日本の人件費で賄い、国際競争に打ち勝つビジネスモデルを打ち立てようとしたわけです。

フランスが抱えていた事情

 フランスは日本に撚糸の機械を売りつけ、鉄道の敷設そのものもビジネスにしてお金、(この場合は「金」だったと思われますが、そういった事情は先の回でお話しましょう)を儲けます。

 「山手通り」や「山手線」が、古くから栄えた江戸市中を通過せず、これを迂回する環状バイパスとして計画、整備されたのは、フランスが抱えていた事情がありました。

 元来は江戸に向けて流れ込んでいた日本各地の文物、中でも当時の日本にとって最大の「外貨作物」であった繭、「外貨製品」であった生糸を、交通流路の細い市内を回避して直接横浜港に導き、そのままマルセイユ→パリとフランスの工場や市場に導入しようというわけです。

 相当に性急、せっかちな「文明開化」の指導と言えます。事実フランスは焦っていました。ではなぜ、フランスは焦っていたのでしょうか?

 答は歴史がはっきり示しています。フランスは1870(明治3)〜71(明治4)年にかけて隣国プロイセンと交戦(普仏戦争)、鉄血宰相ビスマルク率いるプロイセンに完全に叩きのめされて負けた直後でした。

 何よりこの戦争で、情けないことに皇帝ナポレオン契い亙疥困箸覆辰憧袷瓦妨威失墜、第2帝政は崩壊し、第3共和制が名ばかりのスタートを切ったものの、国内の政治経済は混乱、敗戦のため多額の賠償金をプロイセンに取られ、フランス国家は名実ともに「金欠病」に喘いでいた。

 金本位制から金銀複本位制への移行を米国と謀って19世紀のグローバル社会に訴えていた。しかし、実のところ相手にされなかった。

 そこで目をつけたのが極東の、量だけ多い割に粗悪な中国製品などとは比較にもならない良質な生糸を生産していた「日本の軽工業」だった。

 直ちに富岡製糸場につながる糸偏の文明開化をフランスは指導、澁澤栄一が明治の政商として絶大な力を持つに至る決定的な背景は、実は「ドイツに負けて尻に火が点いていたフランス経済」にあったのです。

 富岡製糸場と言うと「女工哀史」などがエピソード的に語られますが、これは経済的に隷属状態に置かれていた当時の後発近代化国家・日本が、このような形で19世紀グローバル経済構造の最下層に接続されたことで発生していることに注目すべきでしょう。

 1880年代の日本の輸出は、実に70〜75%ほどが生糸と関連製品で占められていました。

 また、フランスは鉄道の敷設に焦っていました。これは「羹に懲りてなますを吹く」に似た現象でありました。

 普仏戦争でフランスがプロイセンに負けた最大の理由は「鉄道」にあった。

 ビスマルクは、すでにアメリカ南北戦争で実戦での有効性が確認されていた近代的な破壊兵器を、鉄道というもう1つのネットワーク・イノベーションに乗せ、兵站を含めてフル活用する新たなイノベーション戦略で「普仏戦争」に完全に勝利した。

 そしてフランスの帝政を崩壊させ、代わりにプロイセンを中心とする「ドイツ帝国」の樹立に成功していました。

 まさに「鉄血宰相」と言われるゆえんです。「鉄血」の「鉄」は銃砲や弾ばかりでなく、何よりヒト・モノ・カネを循環させる、鉄道の「ネットワーク戦争」でフランスを圧倒したわけです。

「鉄」に走ったせっかちなフランス

 「鉄で負けた!」となると、合理的ではあるけれど気が短くせっかちなフランス人たちは一挙に「鉄」に走ります。

 パリ万博で「エッフェル塔」が建つのはもう少し先のことになりますが、1870年代フランスは鉄道投機熱が高まり、実は維新直後の日本で新橋―横浜間に鉄道が敷設されたのも、こんな欧州史の背景との関連が察せられます。

 投機の熱が高まれば、当初は景気が良くなり、大味なビジネスプランが語られ、あるとき突然終わりがやって来る。「恐慌」の到来が避けがたいことを歴史は多数の実例を通じて教えています。

 このケースも全く例外ではなく、やがてクラッシュがやって来ますが、別の機会に譲りましょう。

 ここでは維新直後に糸偏で立ち上がった日本の近代化は、西南戦争で失敗国家になりかかった後、1880年代の復興期に「高崎線」を結びますが、やがて日清戦争に勝って清朝から賠償金2億両(テール)を獲得すると、八幡製鉄所建設に始まる重厚長大の「鉄血産業」重工業化にひた走って行きます。

 明治20年代末〜30年代、1890年代の日本は、もはや輸出産業の8割がたを生糸が占める産業構造では成り立たなくなっていた。

 ブームに少し遅れて追随するというのは、やがて襲ってくるクラッシュの直撃を受ける、最短の近道と言えるのかもしれません。

 AIだIoTだと雑誌が騒がなくなった頃から追いかけても、クラッシュの直撃を招くだけなのかもしれませんので、どうぞご用心。

 ブームはブームになる前に、一番おいしいところは食べ尽くされるのが常ですから。

筆者:伊東 乾