自由民主党HPより

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 この国はついに国策映画事業に乗り出すつもりなのか──。

 今月7日、驚きの報道がなされた。1868年の明治維新から150年の節目となる2018年に実施する記念事業として、明治期の国づくりなどを題材とした映画やテレビ番組の制作を政府が支援することを検討しているというのである。菅義偉官房長官はこれに関し、「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」とコメントしている。

 なぜ、「明治期の国づくり」限定で国が金を出すのか? 安倍政権とその背後にいる極右勢力の思惑をもはや隠そうともしていないこの国策映画事業案には当然反発が相次いだ。たとえば、映画監督の想田和弘氏はツイッターでこのように怒りを表明している。

〈戦時中の国策プロパガンダ映画を思い出す。つまらない映画にしかならないことは確実だが、映画を馬鹿にするんじゃないよ。映画は政治の道具ではない〉

 政権が支援してつくらせた映画やテレビ番組で観客に何を伝えようとしているかは言うまでもない。明治以降の日本を「伝統」などと嘯き、戦後の日本を否定すること。こういった思想を映画やドラマにまぶすことで、「改憲」への世論形成の後押しにしようと考えているのは明白だ。

 まるで戦前に戻ったかのような寒気のする状況になってしまったわけだが、実は、このような動きがいずれ起こるであろうことを識者はあらかじめ予想していた。『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』、『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(ともに幻冬舎)といった著作をもち、文化・芸術が政治利用された歴史に詳しい近現代史研究者の辻田真佐憲氏は一昨年前に出版した『たのしいプロパガンダ』(イースト・プレス)のなかで、こんな示唆的な言葉を綴っている。

〈今後はエンターテイメントの舞台で、歴史認識がテーマになる可能性は十分にあるだろう。例えば、歴史を扱ったドラマやゲームなどが考えられる。娯楽を前面に押し出しながら、実はその中身は特定の歴史観に基づいている......という類のものだ〉

 まさか数年後にそういった作品を国がバックアップすることになるとまでは当時の辻田氏も思いもよらなかったのだろうが、もちろん彼がこういった予測をしたのは、エンターテイメントが政治に利用されてきた過去を踏まえているからだ。

 とりわけ、かつて「娯楽の王様」であった映画はその標的となり続けてきた。『意志の勝利』で知られるレニ・リーフェンシュタール監督がナチスのために行った仕事はその典型だが、前述『たのしいプロパガンダ』では、トロツキーによる「(映画は)プロパガンダの最良の道具である」や、レーニンによる「我々にとって、すべての芸術のなかでもっとも重要なものは映画である」といった言葉を紹介し、20世紀の権力者たちがいかに映画をプロパガンダの道具として利用しようとしていたのかを説明している。

 それは日本においても同じだ。内閣情報部が発行していた国策グラフ雑誌「写真週報」の第2号には〈映画を宣伝戦の機関銃とするならば、写真は短刀よく人の心に直入する銃剣でもあり、何十何百万と印刷されて頒布される毒瓦斯でもある〉と記されており、映画というメディアをプロパガンダ戦略における主人公と考えていたようだ。

 現在、太平洋戦争中に数多くつくられた国産の戦争協力映画は内容的につまらなく取るに足らないものと語られがちだが、そのように切って捨てるのは危険だ。たとえば、1940年公開の阿部豊監督による『燃ゆる大空』は、陸軍省協力のもと撮影が行われ、実際の戦闘機を用いての飛行シーンは観客からの喝采を集めた。興行的にもこの作品は、同年の東宝の興行収入3位を記録するなどビジネスとしても成功している。

『燃ゆる大空』はDVD化もされており現在でも容易に見ることができるが、いまの目で見ても迫力ある飛行シーンのルックは見劣りしない。当時の観客からすればそれはインパクトのある画だっただろう。実際、前述『たのしいプロパガンダ』では、この作品の影響で陸軍少年飛行兵に応募した者も現れたと解説されている。エンターテイメントによるプロパガンダは確かに影響力をもっているのである。

 周知の通り、テレビでは「日本スゴイ」系の愛国ポルノバラエティ番組が雨後の筍のごとく量産され、『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』のような「右傾エンタメ」が決して少なくない数の観客を集める状況が続いている。

 百田尚樹氏が「本当に沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん」と発言し大問題となったのも記憶に新しい、15年6月に開かれた自民党若手国会議員による勉強会「文化芸術懇話会」。そもそもこの会合は、芸術家との意見交換を通じて「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を目的としていた(同会設立趣意書より)。ここで飛び出した「政策芸術」なる発想が、今回問題とされている明治期をテーマとした作品への支援事業と地続きなのは言うまでもない。

『たのしいプロパガンダ』のなかで辻田氏は、エンターテイメントのなかにプロパガンダをまぶされることの効果を軽く見るべきではないと警鐘を鳴らしている。

〈確かにプロパガンダは、民衆を思うままにコントロールできる魔法の杖ではないかもしれない。ただ社会の状況とうまく噛み合えば、プロパガンダは民衆の言動に大きな影響を及ぼすことができる。そのなかでも、エンタメを利用することで知らず知らずのうちに我々の日常に忍び込んでくる「楽しいプロパガンダ」は、もっとも効果的で巧妙な例だ〉

 映画はつくり手の使い方ひとつで毒にも薬にもなる。「キネマ旬報」(キネマ旬報社)17年1月下旬号で大林宣彦監督はジャーナリズムとしての映画の役割に関してこんなことを語っていた。

「映画は時代を映す鏡であり、風化せぬジャーナリズム。大切なことを面白おかしく楽しく、見たり考えたり語り合ったりして学べる、映画は学校! 過去から愉しく学んで、未来の日本の映画人諸君にも、映画の上手な使い手になっていただきたいな」

 この支援計画が今後どう展開していくのか、そして、もしも支援のもとに映画なりテレビ番組なりが制作されたら、それはいったいどんな作品なのか。我々は注視する必要がある。
(編集部)