デヴィッド・ボウイの真髄が詰まったドキュメンタリー『ジギー・スターダスト』

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永遠のロックスター、デヴィッド・ボウイの絶頂期を収めたドキュメンタリー映画『ジギー・スターダスト』が18 年ぶりに劇場公開される。

本作は、デヴィッド・ボウイが世界中に衝撃を与えたアルバム『ジギー・スターダスト』と『アラジン・セイン』を引っ提げ、ワールドツアーの締め括りとして1973年7月3日に英ロンドンのハマースミス・オデオンで行った最終コンサートを記録したドキュメンタリー。日本では1999年3月に劇場公開されて以来、18年ぶりの劇場公開となる。

本作の公開を記念し、1972年7月20日にローリングストーン誌に掲載されたアルバム『ジギー・スターダスト』のレヴューをお届けする。


(C) Jones/Tintoretto Entertainment Co.,LLC 

デヴィッド・ボウイがこれまで発売してきたアルバムの中で、最も野心的で首尾一貫したテーマのアルバム。つまり彼の前作が持つメジャーな強みと、どうにも回避できない問題を悠々と調和させる内容の音楽が、「ドラッグ・ロック」シンドロームの盛衰とは異なる運命を辿ったことに、私たちは感謝の祈りを捧げるべきかもしれない。「ドラッグ・ロック」シンドロームとは、アリス・クーパー風の不自然な表現方法や、クイーンやニック・セントニコラス・トリオといった羽根やキラキラのスパンコールをまとったバービー人形のような奇怪で理解不能な連中がデカダンスへの自意識過剰な探求をし、今トレンディなハリウッドですべて“怒り”として表現しているもので、その傾向は悪化の一途を辿っているのは間違いない。

おそらく、ロックに両性具有のファッション性を与え、他の誰よりも影響を及ぼしたのはレディ・スターダストだろう。そのセクシャリティは自身の公的存在の一部として完全に自然なもので、それを宣伝戦略にするような陳腐なマネはしなかった。そのようなことをしたなら、その芸術性に致命的な代償が伴っただろう。

当然ながら彼自身、これを楽しんでいなかったわけではない。ローレン・バコールやグレタ・ガルボのように、男っぽい女性が街を徘徊しているような奇抜なイメージは、華麗さや理不尽さをまとい、それはまるでジョン・レチー著『夜の都会』のダークな場面から飛び出してきたかのようだ。これらの要素は、すべてデヴィッド・ボウイの演劇性という側面に結びついており、異性装者として活動する者や似通った才能を持つ作家・パフォーマーと一線を画する。

特筆すべきことは、ボウイがその感性をレコードに収めることができたということだ。それは偽りのビジュアリズム(クーパーが証明したような期待はずれのもの)ではなく、幅広いスタイルと表現方法を取り入れることによって築かれたものだ。つまりそれは、こちらが混乱するほどバラエティに富んだボーカル・ニュアンスを通して提供される必要不可欠な深さであり、精神の病んだ半狂乱の音楽よりも、経済によってより影響されるという洞察力の吐露であり、最終的には徹底的に統率されたロックンロールの要素なのだ。それはまるで、耳で聴くためだけにデザインされた簡潔な描写の連続だ。

ある意味、『ジギー・スターダスト』のB面はアルバムの魂で、ザ・キンクスのアルバム『ローラ対パワーマン マネーゴーラウンド組第一回戦』の心理的バージョンに匹敵するものだ。ボウイが心の中で大事にしている「ロックンロールのスターになるということは何を意味しているのだろう?」との問いかけに迫るものだ。

まず、支配的で荒廃する心が、フラストレーションや勝利の喜びと入り交じるさまを歌う『レディ・スターダスト』がゆっくりと流れるようにはじまる。たとえ「彼に害はない、バンドもまとまっていた」としても、「人々は彼のメイクをジロジロ見て 彼の長い黒髪を笑った その動物的な気品を」と。ボウイは、この矛盾からあふれ出るビタースイートでメランコリックな感情をアルバム中でも最も真っ直ぐな歌声で美しく表現し、それはまるで夜の闇に包まれた人気のない劇場でスポットライトを浴びる道化師のイメージを連想させる。


(C) Jones/Tintoretto Entertainment Co.,LLC 

彼は『スター』で、私たちに「自分はロックンロールのスターとして、全てを価値あるものにできた」と自信ありげに伝える。ここで、ボウイは人生のまばゆい一面の輪郭を描く。「役を演じるのは、とても魅力的で心惹かれる」と。彼の歌声には心躍る。からかうような語調に満ちながら、素晴らしくデザインされた「ウゥーラララ」を過度なまでにバックにミックスし、聴いていて楽しいだけでなく、アルバム全体に底流するパロディーを表現している。

『君の意志のままに』は、エロティックなロッカーに対する警告とたまらない魅力(とくに手拍子式のコーラス部分)の両方を歌う曲だ。話によると、歌詞に数多くの音節を詰め込み過ぎるのは避けられないとしたボウイは、矢継ぎ早にまくし立てる失敗必須の早口言葉を習得したそうだ。

『屈折する星くず』には風格があり、計算された、ファジーでエレキな『世界を売った男』のような雰囲気がかすかに漂う。「だから僕らは彼のファンの悪口を言って 彼のかわいい手を握りつぶしてやろうか」といったようにグループ内の嫉妬を描いたこの曲では、ボウイの揶揄するような、より大胆な表現が見てとれる。

ボウイのロックンローラーとしての最高の瞬間は『サフラジェット・シティ』で、容赦ない猛烈なベルベット・アンダーグラウンド風のスタイリッシュかつ、流れるようにガンガン弾かれるギターにある。二番でうなるように二本目のギター音が重なったとき、聴き手は我を忘れること必須だ。そして例えようのない、あの最後のわずかな沈黙。あの強烈なクレッシェンドから生まれる突然の沈黙は、ボウイが絞り出すはかなくも帯電した「ウー・ワム・バム・サンキュー・マーム!」の声から続く耳障りなほどのギター音の爆発から、押し寄せる肉塊のようなコーラスへと聴く者を引き戻し、思わず胃がキュンと宙返りしてしまうほどだ。そして我がスターはというと、いま「ここには一人しか君臨できない ほら彼女がやって来た 彼女がやって来た」と勝ち誇った様子である。

しかし、役を演じることには代償が払われなければならない。そして私たちは急激に、静かに恐ろしい絶望『ロックンロールの自殺者』へと転落していく。「時間は煙草を手に取り あなたの口に含ませ 指を引っ張る そしてもう一本指を引っ張り また煙草を取り上げる」と、壊れた歌手がぼそぼそと歌う。しかし、その寒々しい状況から抜け出す方法はあり、それがジョン・レノンのようなボウイのシャウトで表現される。「君は一人じゃない 君の手を出して 君はすばらしい その手を伸ばして」と。そしてそれは激動の、熱烈なクライマックスへと流れる。たとえ気分が晴れやかでなく絶望的でも、内在する楽観主義が新たに登りはじめることができる地点の確立を主張するのだ。

A面はB面ほど挑戦的ではないが、音楽的観点からしてみれば十分楽しめる。ボウイのお気に入りのテーマ、「死」(『5年間』『魂の愛』))や、「痛み」を受け入れる必要性(上記2曲と『イット・エイント・イージー』)、SF衣装の新旧対決(『スターマン』)は、酷評された『世界を売った男』や、筋張ってムラのある『ハンキー・ドリー』では表現しきれなかった一貫性と自信、そして強さをスタイルの上でも、テクニックの上でも兼ね揃えている。


(C) Jones/Tintoretto Entertainment Co.,LLC 

ボウイはA面の『月世界の白昼夢』で、「アイム・アン・アリゲーター(私はワニだ)」という釘付けになるような叫びで楽しさを表現している一方で、『ジギー・スターダスト』という作品が何たるかを雄弁に語っている。なぜなら、そこには完璧な自己嘲笑や、基本的な二重性を暗示する力強いが絶望的な虚勢、そしてそこから発せられる背筋がピリピリするような、「君のロックンロールのスターはどれだけビックでタフなのか」という問いかけが存在するからだ。彼はどこまでがハッタリで、本当はどれほど無力に怯えているのだろうか。そして、これが「身の丈以上の存在」を喜んで演じた結果なのか、と。

すばらしいロックンロール(ザ・スパイダースを形成するギターとピアノ担当のミック・ロンソン、ドラムスのウッディ・ウッドマンシー、そしてベースのトレヴァー・ボーダー、全員がいい)と、その存在感に必要とされる十分なウィットと情熱、そしてスターであることの裏側から定期的ににじみ出る深い人間性をもって、デヴィッド・ボウイはこの複雑な課題を完璧なスタイルでやり遂げた。並外れた性質の取り組みにも関わらず、メッセージを伝えるためにそのエンタテインメント性をまったく犠牲にすることなくボウイがやり切ったことは、特筆すべき点だ。

少なくとも私はこの作品に99点与えたい。

『ジギー・スターダスト』
監督:D.A.ペネベイカー
出演:デヴィッド・ボウイ(ヴォーカル/ギター)、ミック・ロンソン(ギター/ヴォーカル)、トレヴァー・ボーダー(ベース)、ウッディー・ウッドマンジー(ドラムス)
1月14日(土)より、新宿Ks cinemaほか全国順次公開。
http://ziggystardust.onlyhearts.co.jp/