世界の富豪たちが「安藤建築」に託す夢

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「仕事の依頼は大抵、突然事務所にかかってくる電話から」。

世界の富豪たちは、「邸宅」という彼らの理想を体現する最後のプライベートの夢を、安藤忠雄にどう託し、彼はいかに応えているのだろうか。

私の建築家としての経歴は、個人宅の設計から始まっています。1970年代から40数年、海外や日本で個人宅をたくさんつくってきました。

最初は、身近な場所から仕事を始めました。その頃につくったもので、私の実質的なデビュー作でもある「住吉の長屋」(1976、写真下)は、当時評判が悪かったです。

大阪の住吉大社の近くの長屋の建て替えでした。そこで私は外部を窓のないコンクリートの壁で覆って外界と隔絶させ、中庭に入ってくる光や風で住み手に四季の移ろいを感じてもらおうとしましたが、室内は冷暖房がなく、快適さや利便性はいいとは決していえません。依頼主はもともと長屋の住人だったので、そのとき意図していたのは、中庭を置くことでプライバシーを保つことでした。いまでも彼はそこに住んでいて、「中庭から見えるのは自分の空だ」と語っています。
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1992年に、ルチアーノ・ベネトンにアートスクール(FABRICA, イタリア・トレヴィゾ2000)の設計を依頼され、17世紀のヴィラを改造してつくりましたが、その後、彼の長男のアレクサンドラ・ベネトンから自宅をつくってくれと頼まれました。

彼の妻は有名なスキーのメダリストで、敷地内には大きなプールやジムがほしいといいます。ゆったりと住める家に住みたいというリクエストとともに、彼らが最も重視したのも、外部からのプライバシーをしっかり確保することでした。私が手がけたのは、地中に建物が半ば埋もれた「見えない家」(2004)。敷地の周囲も緑で覆い、住み手が静かに暮らしたいという要望に応えたのです。

仕事の依頼はいきなり電話から

仕事の依頼は大抵、ある日突然事務所にかかってくる電話から始まります。私には海外の仕事を取りつけるコーディネイターはいませんから、直接連絡が入ります。事務所のスタッフが「ジョルジオ・アルマーニから電話です。ご本人だそうです」。そして、ミラノに行くことになり、アルマーニの劇場や本社の設計に携わりました。いまでも彼とは付き合いがあります。

人間同士の心の交流がないと個人宅の設計を引き受けるのは難しい。個人宅の設計は依頼主と後でもめることも多いといわれますが、私は違います。相手の話を聞いて、こちらはプランを出す。心が通じていれば、クレームはありません。これまで個人宅を設計した依頼主のほとんどの人たちといまも付き合いが続いています。

クライアントと共につくる夢

「シカゴの住宅」(1997、写真下)の設計を依頼されたフレッド・アイキャナーとの出会いは、1991年にニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された私の個展を彼が観に来たことから始まりました。いまでは25年の付き合いです。


ニューヨークで会った後、しばらくして彼から「シカゴの自宅を建て替えたいので設計してほしい」と言われました。現地を訪ね、仕事を引き受けることにしましたが、私にとって初めての海外での住宅設計だったので、うまくいくだろうかと若干の不安もありました。彼は、「住吉の長屋」や「小篠邸」(1981)などの私がそれまでにつくった住宅をよく研究しているようでした。

海外の人たちは私のつくる建築を見て、日本的な感性があふれているといいます。建築のファサードから一切の装飾を省いているという点もありますが、屋外から入り込む自然の光の時間による移ろいを通して建築を構成していることが珍しいのでしょう。

アイキャナーはこうした特性が自分のテイストに合うと感じたのだと思います。技術の進歩で、今日建築の造形や装飾はどこまでも自由に表現できる時代になっていますが、私は造形の先にある空間を主題に据えたいと考えています。一方、住み手もひとりの人間として自らの住まう家にどんな希望や夢を育むのか。明確なビジョンがあるかどうかが問われることになります。

実際、彼からのリクエストは、庭にもとからある大きなポプラの木を残してほしいということで、それ以外の特別な注文はありませんでした。依頼主が自分なりの思いやしっかりとした方針を持って、こちらに委ねてくれると、仕事はやりやすいです。

「シカゴの住宅」の竣工から16年後の13年夏、彼は久しぶりに大阪の事務所を訪ねて来てこう言いました。「東隣の敷地のアパート群を購入したので、アートギャラリーに改造し、住宅と一体で使用したい」。私はシカゴの古い街並みの彩りを残すレンガ造りの既存の建物を残し、補強したうえで、上部にガラスのボックスを増築することにしました。来夏の竣工を目指し、現在工事が続いています。彼が夢に描いたアートと暮らしが一体化した住まいは、まもなく具現化されるでしょう。

「モンテレイの住宅」(2011、写真下)の設計を依頼されたメキシコの資産家ファミリーは、最後まで私を信じて精力的に支援を続けてくれた人たちとして強く印象に残っています。メキシコ第3の都市、モンテレイを代表する名家からメキシコ大使館を通じて私の事務所に連絡が入ったのは、2006年のことでした。最初に頼まれたのは、ファミリーの息子の個人宅の設計です。


翌年3月、私はメキシコを訪れました。彼らは現地では飛びぬけた資産家で、家にはピカソやマチス、ルノアールなどの絵画が飾ってありました。私は国立公園内にある山裾の広い敷地を歩きました。深い緑と美しい山脈を見晴らす絶景を望む高台に周囲の環境に溶け込むような住宅を建てることが、私に与えられた使命でした。建築で大事なことは、地域の風土や歴史、伝統に融合する世界をつくり出すよう、その土地とじっくり対話することです。 

ところが、設計を進めるとともに、現地の施工状況を調べると、我々や施主が求めるクオリティーは、現地の施工技術だけでは実現が難しいことが判明しました。そこで、日本から2名の技術者を派遣し、現地指導させることを提案したところ、すぐに快諾され、3週間ほど現地の作業員と共に、練習用のコンクリート壁を一緒に打設し、技術を伝えました。結果的には、それらの作業員を雇う形で、施主自身が建設会社をつくることになりました。

そこまでしたのは理由がありました。地元モンテレイ大学の理事を務めていたファミリーを代表する夫人は、大学のデザイン学科の校舎もつくり直してほしいと言い出したのです。それが「モンテレイ大学RGSセンター」(2012)です。

キャンパスの入り口に隣接する場所に、ダイナミックなゲート上のフォルムを構想しましたが、特殊な形態ゆえに建築コストが予想以上にかかり、一時工事を断念しそうになりました。しかしそこでも夫人は妥協することなく、なんとかプロジェクトを実現させました。

建築は依頼者の強い思いがつくるものです。必要なのは、しっかりとした意思があり、ぶれないこと。依頼主がなげやりになると、設計もなげやりになります。建築家と依頼主はお互いにパートナーとして一緒に新しい世界を切り開いていく関係にあります。優れた依頼主はしっかり自分の意見を言うし、我々もしっかり聞く。そうすることではじめて価値ある建築が生まれるのです。

<RGS>という呼称は、モンテレイ大学の発展に寄与したファミリーの名前に由来します。2013年にセンターの竣工式を無事迎えた夫人は、翌年7月、自らの使命をすべてやり終えたかのように静かに逝去しました。

個人宅の設計というものは、我々にとってはひとつの仕事にすぎませんが、依頼主にとっては一生の住まいとなります。だから、お互いによほどの信頼関係がなければ、うまくいきません。

実は、モンテレイの仕事を請けるとき、最初はためらいがありました。それを乗り越えられたのは、依頼主の熱意に圧倒されたからです。技術的なことはメキシコと日本ではずいぶん違いますが、気持ちさえあればなんとかなる。仕事に必要なのは、創造性はもちろんですが、忍耐力と協調性、持続力です。

その意味では、私が建築を手がけた直島(香川県)のベネッセハウスミュージアムの実現も、施主であるベネッセコーポレーションの福武總一郎氏の勇気といえるでしょう。どんなプロジェクトも、クライアントに勇気があって、前に進めようという気持ちがあるかどうかにかかっているのです。

これまで私は、サントリーの佐治敬三氏、アサヒビールの樋口廣太郎氏、セゾングループの堤清二氏、京セラの稲盛和夫氏など、多くの企業家たちとの出会いに恵まれました。皆私より15歳くらい年長です。彼らとの出会いが生まれたのも、私が常に希望を持って、夢に向かって全力疾走していたからだと思います。何の実績もありませんでしたが、ただ「人間として面白いから」というそれだけの理由で、相手にして下さったのです。

だから、若い時代はひたすら走るしかない。全力で走っていれば、必ず誰かが近づいてきます。クライアントは一緒に走れる人がいい。何でも言うこと聞く人より、言うことを聞かないけれど、希望に燃えている人がいいのです。

TADAO ANDO◎1941年大阪生まれ。建築家。独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。79年「住吉の長屋」で日本建築学会賞。代表作に「光の教会」「淡路夢舞台」「FABRICA(ベネトンアートスクール)」など。10年文化勲章受賞。17年9月27日(水)〜12月18日(月)国立新美術館にて開館10周年「安藤忠雄展」開催。原寸大で「光の教会」を再現するほか100を超える住宅作品の全てが公開される。