品川北馬場、駒込、元競馬場、駒沢、駒場、高田馬場・・・。

 山手通り沿いに車を運転してあちこち訪ねてみると「馬」にまつわる地名がたくさんあることに改めて気がつきます。

 駒沢大学や駒場東大前は駅の名前でもあり、ご存知の方が多いと思いますが、「元競馬場」はローカルであまり知られていないかもしれません。

 駒沢や駒場は目黒の地名ですが、山手通りを北上すれば「目白」という地名もある。白目、なら普通ですが、目が白いとちょっと困りそうです。同様に黒目は普通ですが、目黒という名前は、見慣れているだけで、変な名前ですね。

 今回は「目黒通り」沿いの地名と「さんま」などのゆかりを考えてみました。

油面・鷹番

 JR山手線・目黒駅前には山手線をまたぐように2つの坂道がついています。権之助坂と行人坂で、両者は西向きで合流して新目黒橋を渡り、坂を降り切ったところで山手通りにぶつかります。

 その谷底にあたるのが大鳥神社の交差点、ここで山手通りと目黒通りがクロスします。

 母方の実家が「行人坂」を上がって右に折れた角にあったので、こうした古くからの地名は子供の頃から親しみがあり、とても懐かしいものでもあります。

 そこから再び目黒通りを山の手の方に坂を上がって行くと、ヤマハのビルの隣に「目黒寄生虫館」という、知る人は知る特異な博物館があります。

 これを左に折れてまっすぐ進むと不動公園、そして目黒不動に行き当たりますが、今はそのまままっすぐ目黒通りを進むことにしましょう。

 上り切った所が「元競馬場」そして「油面」という不可思議な地名です。どうやらもともと競馬場があったらしい。

 現実には日露戦争後に作られ、昭和初期に姿を消したそうで、大正15年生まれの母が、母の母、つまり祖母ですが、これが亡くなったのを機に神戸から目黒に越してきた昭和11年頃には、すでに姿を消していたそうです。

 元競馬場というくらいですから、広々と台地が続いていたのでしょう。このエリアには清水台という地名も残っており、湧き水が出る台地なら馬が走るのには向いている。

 油面という不思議な名前は「油免」が由来という説があります。油は菜種油、すぐ北にある徳川家ゆかりの祐天寺に納める菜種油を産し、租税を免除されていた村だったから、であるという。このあたりは実は将軍家ともゆかりが深かった。

 油面交差点を過ぎて目黒通りを進んで行くと、中学や郵便局を超えて「鷹番一丁目」の交差点に出ます。「お鷹番」つまり、大名や将軍の「鷹狩り」が行われていたのですね。

 お殿様が江戸市中から目黒に馬で遠乗りして、清水台あたりで鷹狩りをする、というのは、江戸市民には常識に属することだったのでしょう。そこから例の「目黒のさんま」という落語が出てきたのだと思われるので。

なぜ「さんまは目黒に限る」のか

 江戸というのは本来下町で、そこから五街道に進んだ最初の宿場を結ぶと山手通りになるのでした。

 つまり「品川の宿」より西の鮫洲も大森も、目黒の鷹番も、あるいは「内藤新宿」を越えた中野の鍋屋横丁もサンプラザの建っている将軍綱吉の「犬屋敷」も、板橋仲宿より先の十条や練馬大根の産地ゾーンも「江戸」ではなかった。

 今でこそ、東急線沿いの自由が丘とか田園調布なんて、東京の典型的な高級住宅地になっていますが、江戸時代の目黒は馬がいくらでも駆け回る、獣が棲む鷹狩りの場所だった。さて、落語はいろいろなバリエーションがあるので、その一例ということですが・・・。

 「ある日、あるお殿様のご一行、江戸市中から遠乗りでその目黒までやって来た。で、お鷹狩りはよかったのですが、うっかりしたことに弁当を忘れてしまった」

 といったあたりは落語ですからフィクションの設定で野暮なことは言わず進めましょう。

 弁当を忘れてしまった。とはいえ辺りは目黒の村、お屋敷で出てくるような上等な食べ物などは何もありません。

家来が近くにあった民家に足を運び

 「あーこれこれ、拙者は○○家中××と申すものである。もったいなくも○○の殿にあらせられてはお鷹狩りでお遊びであるが、仔細あって弁当を忘れてしまった。何か食するものはないか?」

 と尋ねたかどうか知りませんが、江戸を遠く離れた鷹狩り場、目黒の台地のことですから、ろくな食べ物がありません。

 くどいようですが、目黒は「台地」です。丘の上の広々とした草原や雑木林、やや大げさに言えば「高原」と思ってください。

 そこで百姓などしている庶民としては、むしろ贅沢に属したかもしれないのが「下魚」であるとしてお殿様の口には絶対入らない「さんま」でした。

 時は天高く、馬肥ゆる秋であったのでしょう。と言うか、そうでないとサンマ=秋刀魚の説明がつきません。

 「武蔵小山」の山の上と言ってもいい「油面」やら「鷹番」やらで、海で獲れる庶民の食べ物。ゲザカナであるサンマに少しだけ準備があった。

 料理とは言え手間をかけることはしない、オンボ焼きと言って炭の中に魚をそのまま放り込んで真っ黒に焼いたサンマしかない。

 「こんなものをお殿様に献上するわけにはいかねぇ・・・」などと言っているところに、空腹に耐えかねたお殿様、焼き魚のいい匂いを嗅がされたのではたまったものではありません。

 「おお、そのほう何をしておるか」

 「実はかくかくしかじか」

 「苦しゅうない、そのサンマとやらをこちらへ」

 「ははっ」

 ってなやり取りで、お殿様の前に登場したサンマ。

 今で言うなら、皇族やら皇太子やらの前に引き出されたマクドナルドのチーズバーガー、で問題があれば、テキヤの粉もん、紅しょうがだらけのお好み焼きかタコヤキあたりを連想すれば、少しは近いでしょうか。

 それまで食べたこともなかった、炭で真っ黒け、でも油の乗ったサンマを一口食したお殿様、空腹も手伝ったのか、あまりのうまさに感激至極、すっかりサンマのファンになってしまいます。

 お城の中でもサンマの話題、侍であれば、下の身分でもキンメダイくらいのことは言って「みどもはサンマなぞ食せん」と強がったりしそうな「ジャンクフード」がにわかにブームになってしまった。

 お殿様さっそく「余はサンマを欲するぞ。これへ」と言ったか知りませんが、家臣は上を下への大騒ぎ、日本橋の河岸でサンマを購入、うなぎの蒲焼よろしく蒸篭で蒸して、十分に油分を落とし、これはハモかと見まごうばかり、パッサパサの身にしたうえ、毛抜きで小骨を入念に取り外し、上品な器に一口大にしらっちゃけたサンマの身をあしらい、しょうがか何か添えたのでしょうか、ともかく御殿料理の一品にでっち上げた。

 「殿、『サ・ン・マ』でござりまする」

 「うむ、大儀であった、これへ」

 「ははっ」

 と言ったか知りませんが、運び込まれてきたのは、鷹狩りで出向いた農家の庭先で目にしたオンボ焼きとは似ても似つかぬ上品な代物。

 箸でつまんで口に入れてみるけれど・・・。うまくも何ともありません。

 「これは本当に『サンマ』であるか?」

 「間違いございません、正真正銘、日本橋河岸で仕入れてまいりました『サ・ン・マ』にござりまする」

 これはまあ、今で言うなら「日本橋三越で仕入れて参りました『た・こ・や・き』でござりまする、と言うようなもので、別段三越になんの恨みもありませんが、私がタコヤキを食うんだったら、デパ地下なんぞで食うよりは、ドブネズミとか走ってるかもしれないけれど、大阪道頓堀・戎橋あたりのテキヤの屋台の方が旨いと思います。

お殿様が思ったのも同じことで

 「それはいかん。やっぱりサンマは目黒に限る」

 で落語の「落ち」になった。これはサンマという海の魚が目黒という高台の草原の名物と言っているのが可笑しいので、今日の例で考えるなら・・・。

 秋葉原名物の「メイドカフェ」を、山奥から出てきたオッサンが何かの間違いで埼玉県は北越谷(に何の他意もありませんが、地下鉄日比谷線で秋葉原から北上した任意の地名ということで)で体験、やたら感激してしまい、山奥でメイド喫茶を再現してみようと思います。

 が、ゴスロリルックが揃わず、せっかく銀座の松屋から取り寄せた服が割烹着だったりして、どうにも農協の炊き出しにしかならない。そこで一言。

 「やっぱし メイド喫茶は越谷に限る!」

 と言うような、常識に裏打ちされたズレの可笑しさがあったのだと思います。

 今の目黒では地元商店街が「さんま祭り」を開くなど、ミスマッチの感覚は消えてしまい、正味のご当地名物になりつつありますが、「目黒の高台」に「さんま」をもたらした交易路が、現在の山手通り、つまり目黒川=かつての「目黒不動こりとり川」のへりに沿って海から通じる道だったと思うのです。

 大名相手の日本橋河岸ではなく、庶民の河岸品川で上がったサンマが、日持ちのためにザッと塩されて、岡持ち担いだ威勢のいい兄ちゃん・・・最近の若い人には「一心太助」なんて言っても通じないと思いますが、そういうタイプ・・・が売りに歩いた。そういう江戸期以来の物流交易路があって、可能になった笑い話と思います。

 上のたとえでも、地下鉄日比谷線の銀座―秋葉原と、それに連続した東武伊勢崎線から北越谷という地名を選んでみましたが、日本橋と浦安のディズニーランドと東葉勝田台でも、京急蒲田と横浜馬車道と浦賀、馬堀海岸でも、何でもいいわけで、特段の他意はありませんので念のため。

 ひと・もの・そしてお金の流れ、河川や街道筋のネットワークがある中で、ちょっとしたボタンのかけ違いから笑いが生まれる・・・。

 のどかな時代は「目黒のサンマ」でみんなが笑えたわけですが、情報過剰な21世紀のネットワーク社会では、地名を背景にこういギャグが伝わりにくい時代になってしまったようにも思います。

 目黒は殿様の馬の遠乗りや鷹狩りと縁があったことは、落語からも何となく確認できたように思います。

 さてしかし「目白」とか「目黒」という目が白黒する不思議な地名そのものはどこから来たものなのでしょうか・・・。

 続けて調べてみると、意外な事実がいろいろ浮かび上がってきました。

(つづく)

筆者:伊東 乾