技術研究部門の充実を目指して

 鴨居羊子のスキャンティと同時期、“紙パンティ”なるものも発売された。

 色の異なる7枚の紙パンティが入っていて当時200円。木村屋のあんパンが20個買える値段である。

 青木信光という人が発明者だった。当時は生理用品がよくないため、しばしばパンティが捨てられてトイレ詰まりの原因となっていたところから着想したのだが、使い捨てというのは当時の日本人には贅沢すぎる。これも一時的流行にすぎなかった。

 時代のあだ花が登場する中、幸一は王道を歩むことの大切さを余計に意識し始める。それは徹底的に品質にこだわることだった。

 そして彼の視線の先にあったライバルは、スキャンティでも紙パンティでもなく、あくまでも欧米の下着メーカーであった。

 (戦争には負けたかもしれんが、商売では絶対に負けられへん!)

 それが彼の意地であった。意地や勝負度胸では、だれにも負けない自信はあったが、一方で、目の前にもっとも手ごわい敵が立ちはだかっていることを感じていた。それは自分自身であった。

 話は下着ブームの少し前にさかのぼる。

 幸一は和江商事の基礎研究や新商品開発力に内心不安を抱いていた。

 〈知らぬ者が知らない商品を作って、知らぬ人に売るようなやり方。いつかあかんようになる〉(『ワコール50年史“ひと”』)

 幸一は当時の日記にその苦悩のほどを書き残しているのだ。

 そんな時、一人の男との出会いがあった。鐘淵紡績(通称鐘紡、後のカネボウ)に勤めながら京都女子大学で服飾史や服飾美学の講義をしていた玉川長一郎である。幸一より6歳年長だった。

 戦前の鐘紡は、慶應義塾で福澤諭吉の薫陶を受けた武藤山治が社長を務め、一時は繊維ブームに乗って売上高日本一に輝いたわが国を代表する企業である。空襲で国内工場のほとんどを失ったとはいえ、名門企業であることは間違いない。

 その鐘紡は戦後、下着に力を入れはじめていた。和江商事にとっての強力なライバルになる可能性も秘めていたのである。

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