2016年、両親を乗せてシアトルの空を飛行する前田さん(右)(写真提供:前田伸二さん)

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夢に向かって進んでいたある日、事故で自分の将来が一瞬で閉ざされたら、あなたはどうするだろうか。子どものころからパイロットにあこがれ、勉強を続けていた前田伸二さん(37)は大学生のとき、交通事故に巻き込まれて右目の視力を失った。大きなけがからは回復したが、夢は砕かれてしまった。

絶望に打ちひしがれ、一筋の光を求めて米国に向かう。そこで、目が不自由でも操縦士になれる道があると知った。努力を重ね、日本人唯一の「隻眼パイロット」となった前田さんを取材した。

恩師と親友の言葉で気持ちが奮い立った

――パイロットになる夢を持ち始めたのは、いつからですか。

前田北海道本別町出身の私は、エアラインパイロット(旅客機の操縦士)の候補生を育成する航空大学校分校がある「とかち帯広空港」に向けて、訓練機が実家の上空を飛んでいる様子をいつも見ていました。「いつか、僕もあそこから十勝平野を見るんだ」と夢を描いていたのです。中学卒業後、山梨県の日本航空学園に進学、大学は日本大学理工学部航空宇宙工学科へ進み、エアラインパイロットの道を目指しました。
しかし1998年、大学入学から2か月後に交通事故に遭いました。前方不注意の右折車が、バイクで交差点を直進していた私に突っ込んできたのです。はねられた私は宙に飛ばされ、地面に落下した際に頭部を強打しました。診断は「右前頭部及び左側頭部にかけての脳挫傷」。私の下宿先の近くに住んでいた伯父と伯母には、「48時間が山、最悪の場合あり」と伝えられたのです。
九死に一生を得ましたが、頭がい骨骨折により右視神経を断絶し、右目の視力を一切失いました。

――事故後、自分の気持ちをどうやって前向きにできたのですか。

前田交通事故発生時から、自分が既に障害者となっていることに気づいていました。ただただ、つらいとしか思えませんでした。
退院後、厳しい現実が待っていました。まるで自分の体ではない感覚で目が回り、太陽の光のまぶしさが強烈でした。大学に戻ったものの、私の学科は、通常1年を費やす授業を半年のスピードで進めていたため完全にお手上げ状態。1年生を終えた時点で「自主退学もやむなし」の成績でした。
「俺の人生は完全に終わった」。そう嘆いていたある日に高校の恩師に電話し、「先生、もうダメです」と話しました。すると、「そうか、死ぬか?じゃ、死になさい」と告げられて「ガチャッ」と切られました。とうとう恩師にも見限られたと思っていると、すぐに電話がかかってきて、こう諭されたのです。「つらいだろうが今は諦めてはだめだ」と。親友からも、「前田、お前は生きていてくれていればいい。一緒に飛行機を飛ばせなくても、お前はこの世に生きてくれればいいんだ」との言葉がありました。こうした激励により、私は自分の気持ちを奮い立たせることができたのです。
それからは、大学で猛勉強の毎日でした。月〜土曜日はビッシリ授業、日曜日は製図や実験リポートに追われ、最低限の睡眠時間という地獄の生活でした。あの日々は、もう二度とイヤですね。

「シンジ、なぜおまえはパイロットにならないんだ」

――大学を卒業後、米国に渡った理由を教えてください。

前田 大学在学中、先述の高校の恩師から「一度、米国にでも行って世界を感じてこい」とアドバイスされたのがきっかけで、2年生の春休みにシカゴの友人をたずねました。そこで障害者が生き生きと暮らしている様子を目にしました。
一方で在学中、日本国内での障害者の就職について自分なりに調べました。多くの大人に意見を求めましたが、「障害者はパイロットになれない」「就職できない」との答えが返ってきました。それなら日本にいても仕方がない、米国に行くしかないと考え、大学卒業後に日本を飛び出し、航空業関連のインターンシップを募集していたシアトルに向かいました。この時は、将来米国でパイロットへの道が開けるとは知りませんでした。
1年後、インターンを終えるとエンブリー・リドル航空大学大学院の修士課程に進学し、アリゾナ州のキャンパスで航空の安全について学びました。クラスメートや教授陣の多くはパイロット経験者です。ある日、教授の1人が空港に私を連れ出して、彼の飛行機に乗せてくれた際にこう言いました。
「シンジ、なぜおまえはパイロットにならないんだ。まさか片目が理由で飛べないとでも言うんじゃないだろうね。おまえの挑戦は何も始まっていない。なぜなら、おまえは飛べるのだから」
米国航空法では、身体に障害を持つパイロット候補生に対して米航空局が飛行試験を実施し、問題ないと判断されるとSODA(Statement of demonstrate abirity)が発行されます。2004年にSODAを取得した私は翌05年、単発・双発計器飛行付自家用操縦士免許、また単発水上とハイパフォーマンスの操縦士免許をそれぞれ手にしました。渡米から3年で、ついにパイロットになったのです。

――日本ではパイロットを目指すのは不可能と言われたのに、米国では夢がかなった。日米で差があるのはなぜだとお考えですか。

前田これは私個人の意見になりますが、まず日本人のゼネラルアビエーション(民間航空)に対する認知度や関心度が欧米に比べて低いと思います。米国では移動でも航空機がとても身近です。私が(小型機を)操縦する場合、行き先を決め、カウンターでキーを受け取って機体を点検し、「行ってきます」と離陸して空の上に達するまで20分ほどです。民間航空を扱った全国紙、専門誌も多く発行されています。日本では、航空機は別世界ととらえられている気がします。(自家用機などは)「お金持ちの道楽」と考えられているのではないでしょうか。
また日本では規制が多く、航空機は危ないという固定観念があるとも思います。そのため、障害者が空を飛ぶなんて「想像しただけでも危険」となるのでしょう。米国では多様性(ダイバーシティー)という文化が明確にあり、外国人である私が(パイロットとして)活動できるのも、そのおかげだと思います。

誰もが夢を追い続ける資格がある

――2016年には、念願だった事業用操縦士(コマーシャルパイロット)の免許を取得されました。ここにこだわった理由は何ですか。

前田ひと口にパイロットと言っても、すぐにジャンボジェット機を操縦できるわけではありません。米国ではエアラインパイロットになる前に、自家用操縦免許、次に事業用または飛行教官の免許を取得する必要があります。操縦経験や時間を積み上げてから、上級パイロットを目指すのです。私が取得した事業用操縦士免許は、遊覧飛行や、スカイダイビングを希望する客を上空まで連れていくための飛行、また農薬散布の飛行と、料金を頂戴して乗客や貨物を運べるライセンスです。
現在は、飛行教官になる訓練を受けており、遠くない時期に教官としてシアトルの空を飛ぶことになるでしょう。また2016年は、米国航空身体検査の第1種(Class 1)を取得しました。これはエアラインパイロットに適用される身体検査の証明です。つまり片目が見えなくても、健康上問題ないと医師が判断した場合、旅客機の操縦士と同等に扱われるということです。

――ご自身の目標達成を目指すと同時に、積極的に講演をして情報発信していらっしゃいますね。その目的は?

前田2008年から活動を続けていますが、2016年に「Aero Zypangu LLC.」を立ち上げました。私は現在も航空業界で仕事をしていますが、並行してAero Zypanguの代表として、片目が見えない事業用操縦士として、障害者が社会で活躍できる場があると証明すること、航空関係者に「SODA」や米国航空法の航空身体検査控除を広く理解してもらうこと、若い世代が航空業界にもっと興味を持ってもらうことを目指します。
講演する相手の多くは、日本人です。米国の場合、私のように身体に障害を持つ操縦士はそう珍しくはありません。でも日本では、私は「特別」です。聴衆が若い学生だと、耳の痛い話がいっぱいでしょう。でも講演後は「自分がいかに恵まれていたか気づかされました」「もっと早くこういう大人の話が聞きたかった」といった反響があります。これまで講演を聞いてくれた若者のなかには、旅客機操縦士を目指して修行中の人や客室乗務員へのあこがれを抱く女性が、私の話で「覚悟が決まりました」と言ってくれたりしました。私の活動は小さいですが、こうした若者を応援するのが役割です。
よく、「なぜ飛び続けるのか」と質問されます。「日本でできなくても、必ずどこかで活躍できる場所がある」、これを証明するためです。交通事故で片目の視力を失った当時18歳の私が、夢を見ることも目標を語ることも、大人たちは許してくれなかった。だから、誰もが夢を追い続ける資格があるという「生き証人」として、飛び続ける必要があるのです。

前田伸二さん略歴
Aero Zypangu LLC.代表。北海道生まれ。交通事故で右目の視力を失うも、2002年に渡米後、2005年にエンブリー・リドル航空大学大学院で航空安全危機管理の修士課程を修了。同年、単発・双発計器飛行付自家用操縦士免許ほか単発水上とハイパフォーマンスの操縦士免許を取得する。2016年には事業用操縦士となり、現在は飛行教官を目指している。