■2016年引退特集(2)
「自らを失わなかったスター」市川大祐(後編)

2016年シーズン、JFLのヴァンラーレ八戸でプレーしていた市川大祐(36歳)が今季限りの引退を決めた。1998年の日韓戦で「17歳322日」という最年少記録で日本代表デビューし、以降、2002年日韓共催W杯に出場するなど、表舞台で脚光を浴びてきた大型サイドバック。だがその間、ケガに悩まされるなど、知られざる苦悩も味わってきた。現役を退いた今、悲喜こもごもあったサッカー人生を振り返る――。

――サッカー人生の中でもっとも印象に残っていること、真っ先に浮かぶのはどのシーンですか。

「清水エスパルスのユースに所属していた高校2年生のときの、1997年12月。天皇杯3回戦の福島FC戦で初めてトップチームに招集され、わずか6分ですが、その試合に出場できたことです。その後のサッカー人生を、大きく左右する転機となった出来事でした。

 試合の前日、いつものようにユースでの練習を終えて家に帰ると、『明日の天皇杯メンバーに入ったよ』とトップチームのスタッフから電話がありました。普通はメンバーに入れば、前日練習から合流するんですが、それもなく突然の招集だったので、ビックリしたのとうれしさとで、ちょっと舞い上がってしまいましたね。電話を切ると、いても立ってもいられず、家の近所をランニングしました(笑)」

――突然の招集には、何か特別な要因があったのでしょうか。

「当時はトップの登録選手が少なく、紅白戦や練習試合などでは、ユースのメンバーが頻繁に(トップチームに)呼ばれていました。そこで、監督やコーチから(自分の存在を)覚えてもらっていたことは確かです。

 それと、ちょうどクラブ運営が厳しい時期で、ユースチームも存続できるかどうか、という噂が流れていたときでした。ちょうどJリーグのユースカップを戦っていて、もしチームがなくなってしまったら、自分たちは他のクラブに移ることになるだろうと思った。だから、『(清水が)強いユースチームだと知ってもらおう』というのを合言葉に優勝を目指して、誰もが自らの存在を必死にアピールしていました。結果的には(トップに招集された)福島FC戦後にユースチームは全国優勝を果たすのですが、そのトーナメントを勝ち上がっていく途中の映像を、当時のアルディレス監督が見てくれていて、そこでのプレーを高く評価してもらったようです。

 いくつかの条件が重なって得たチャンスですが、ユース選手としてはありがたかったですね。それまでに、スタンドからトップの試合を見る機会も多かったので、もし自分が出たらこんなプレーをしたい、というイメージは持っていました。生意気ですが、試合に出たら『やれるんじゃないか』という自信もありました」

――そうしたアピールが功を奏してか、翌1998年シーズン前には、トップチームの石垣島キャンプにも参加。そのまま、コンサドーレ札幌とのリーグ開幕戦で先発出場を果たしました。

「キャンプに呼ばれたことで、トップチーム定着へと一歩前に進んだ気はしましたね。まだまだトップレベルには程遠いとは思いながらも、漠然とリーグ開幕戦での先発出場に照準を合わせました。結果、リーグ開幕戦に先発できたのですが、実は試合1週間前に監督室に呼ばれて、『先発でいくぞ』と言われていたんですよ。でも、その事実は誰にも言えなかったですね。親にも、ですよ。誰かに言ったら先発がなくなる気がして(笑)。

 先発はしましたけど、同じポジションにいた日本代表のDF安藤正裕さんよりも高く評価されたという意識はまったくなかったです。ポジションを勝ち取ったという感覚もなかった。それでも、大事な開幕戦で使ってもらったことがすごく自信になりました。そして、続く第2節の京都サンガ戦も先発出場。後半に交代したんですが、札幌戦よりも『いいプレーができた』と思って、ますます自信が深まりました」

――開幕戦の先発以上の驚きがあったのは、この直後ですね。17歳ながら、日本代表に初招集されました。ご自身もかなり驚かれたのではないですか。

「チームスタッフから『代表に入ったよ』と電話があって、思わず『何の代表ですか?』と聞き返すと、『フル代表だよ』と。うれしいというより、とにかくビックリでしたよ。トップチームの試合にまだ2試合しか出場がないわけですよ。フル出場もしていなければ、すごく活躍したわけでもない。『何で自分なんですか?』と思いますよね」

――そこから大騒動となったわけですが、周囲の反応をどう見ていましたか。

「異常な雰囲気は感じていましたけど、トップチームでの経験もほぼなくて、日本代表のイメージなんてまったくない状態でしたから、何も考える余裕はなかったですね。ただ目の前のことに一生懸命取り組むだけ、それが精一杯でした。

 はっきり言って、トップチームや代表のスタンダードが何なのかもわからない中で、報道の過熱ぶりに戸惑いながらも、それに何とか対応し、練習して試合に臨むだけでした。確かに異様なものも感じていたのですが、どこにも何も言わなかったですね。というより、言えなかったのかもしれません。それ以前に、いろいろなことを深く考える時間がなかったことも事実です」

――そうして、1998年4月1日のアウェーで行なわれた日韓戦で、早くも日本代表デビューを飾りました。計り知れないプレッシャーもあったかと思うのですが。

「日韓戦は特別なものだとわかっていましたけど、何より自分が先発することが驚きでした。スタジアムに向かうバスの中で、すでに息苦しさを感じていましたから。スタジアムに着いたら、スタンドは相手サポーターで埋め尽くされていて、気温はわずか5度。体が震えるというか、何も耳に入らないような緊張状態でした。そんな自分に、岡田武史監督は『失敗しても何も失うものはない。気軽にやれ』と。そのひと言に救われました」

――その試合でフル出場。注目度はさらに増しました。クラブは新しい運営会社が引き継いだばかりで、取材対応も大変だったのではないですか。

「そうだったと思います。新しい広報の方も、『自分が右も左もわからない中で、市川の取材対応が大変だよ』と言って、バタバタしていましたから。その後、日本代表での活動も多くなっていきましたが、やっぱり自分は清水の一員としてプレーしているときが一番(精神的に)落ち着きましたね。自分を理解してくれている人が多かったし、何より普通に扱ってくれましたから。

 例えば、日韓戦が終わってホテルに戻ると、クラブの幹部の方からはこんなメッセージが届いていました。『代表デビュー、おめでとう。今日はいいプレーもあったけど、まだまだやらなければいけないことがあるよ』と。その言葉で、自分の立ち位置が再確認できました。普段どおりのアドバイスは、注目度が高くなった自分が勘違いしないように、という配慮もあったと思います。

 当時、サテライト監督だった大木武さんからは、『どんなに騒がれても、おまえがうまくなるわけでも、下手になるわけでもない。おまえはおまえだから』と言ってもらいました。騒がれていることで、僕自身、『いいところを見せなきゃいけない』という部分があったと思いますが、その言葉が、今自分ができることが何かを教えてくれた」

――その後、フランスW杯では候補メンバーとして現地まで同行したものの、残念ながら最終的にはメンバーから外されてしまいました。

「最終メンバーに入れないことは、自分でもわかっていました。現地に行ってからは調子が上がらず、まったくダメでしたから。ところが、(メンバーから)外された途端に動きがよくなって、当時は『あと1週間、メンバー発表は遅かったら......』と思ったんですけど......。今思えば、メンバー外になって調子がよくなったのは、プレッシャーがなくなったからだと思います」

――外れたメンバーの中では、唯一現地に残りました。

「残るか、(日本に)帰るかは、自分に選択権があって、僕は貴重な経験になるだろうと思って、残ることを選択しました。実際、多くのことを肌で感じ、その後の選手生活にもプラスになるいい経験ができたと思います。ただ、ベンチにも入れてもらったんですが、目の前にあるタッチラインの先は、相当遠くに感じましたね。だから、次の2002年大会には『絶対に出場するんだ』と強く誓いました」

――順風満帆だった選手生活が、翌1999年に一変します。オーバートレーニング症候群によって、長期離脱を強いられました。

「その年のワールドユース大会(現U−20W杯)を控えたU−20日本代表のアフリカ遠征が1月にあったのですが、その際、とにかくだるくて体が動かなかった。帰国しても状況は変わらず、クラブの寮の3階まで上がるのもつらかったほど。それで、検査を受けた結果が、オーバートレーニング症候群でした。担当のドクターからは『簡単に言えば、普通の人以下の体力しかない』と。

 当時はチーム以外にも、日本代表やU−20代表の遠征もあって、学校にも行っていました。体が重いのは自分のがんばりが足りないからと思っていましたから、もし診断もせずにそのまま続けていたら、もっと悪化していた可能性もあります。その前に防ぐことができて、ホッとしました」

――長期離脱から復帰するや、「絶対に出場する」と誓った2002年W杯のメンバー入りを見事に決めました。

「1999年から一度も代表に招集されないまま迎えた2001年シーズンは、『今年が勝負だ』と思ってスタートしました。W杯まで『もう1年半しかない』と考えず、『まだ1年半ある』と心に決めて。そのうえで、日本代表に呼ばれるためには、『これまで以上にスーパーなプレーを見せていこう』と意気込んで試合に臨みました。その結果、この年はアシスト数でリーグ1位になるなど、プロ入りしてからベストなプレーができたと思います。

 とにかく、一度代表に呼んでもらえれば、絶対にいいプレーをする自信もありました。すると、2002年に入ってから招集され、念願のW杯出場も果たすことができました。ただ、本大会では、予選リーグのチュニジア戦でアシストを決めたぐらいで、個人的には満足する内容ではありません。チームも決勝トーナメント進出を果たしながら、ベスト16止まり。選手みんな、もっと上を目指していましたから、まだまだという気持ちで終わってしまいましたね」

――続く2006年のW杯でリベンジを、という気持ちも強かったと思いますが、2002年W杯以降はケガとの戦いでした。引退か、と思われるピンチも何度かあったのではないでしょうか。

「2003年のシーズン前に半月板を痛め、それを挽回しようと臨んだ翌2004年もヒジのケガに加えて、ヒザ痛も再発してしまいました。リーグ戦出場はわずか3試合と、どん底でしたね。こんな状態でできるほどプロは甘くないと、改めて感じました。このとき、初めて引退を考えましたね。もし2005年もこんな調子ならば、現役をやめようと」

――ところが、その2005年シーズン、リーグ戦では全試合に出場して完全復活を遂げました。その要因は、何だったのでしょうか。

「ひとつは、かつて一緒にプレーしていた(長谷川)健太さんが監督に就任したことです。ケガ続きの自分に『おまえの力が必要だ』と言ってくれました。それで、高いモチベーションを維持してシーズンに臨むことができました。

 同時に自分の考え方も変えました。2002年以降は、2006年のW杯出場や海外でプレーするイメージを抱いていたものの、2004年には引退も考えるほど、どん底の状態になっていましたから。そこからは、先を見据えることなく、1日しっかり練習ができたら『1日できたぞ』と、2日練習ができたら『2日もできたじゃないか』と喜んで、それを徐々に延ばしていけばいいんじゃないか、と思うようにしたんです。

 それまではストイックに自分と戦っていたんですが、それからは自分と協力していこうと。自分の体と相談しながら練習し、1日がんばったら、自分の体をいたわり、ほめる。調子がよかった過去の自分を求めるのではなく、今の自分をしっかりと見つめていこうと思ったわけです。その考え方の変化が、2016年シーズンまで現役を継続できた大きな要因のひとつだと思います」

――その後、2011年にヴァンフォーレ甲府に移籍し、J2の水戸ホーリーホック、JFLの藤枝MYFC、地域リーグのFC今治、JFLのヴァンラーレ八戸と渡り歩いてきました。

「ヒザの状態が厳しく、甲府も、水戸も1年で契約を終えました。そのときはもう、もし現役を続けるなら手術をするしかない状態で、そこまでして受け入れてくれるクラブなどないだろうなと思っていました。そうしたら、清水時代の先輩・斉藤俊秀さんが監督を務める当時JFLの藤枝MYFCが声をかけてくれて、手術をして何とか現役を続けることができました。その後も、今治、八戸でプレーする機会を与えていただき、ここまで現役を続けることができました。改めて感謝を伝えたいですね」

――小学校1年生からサッカーを始めて30年、1998年にリーグ戦デビューを飾ってから19年。最後に、ご自身が幸せだったと振り返るサッカー人生において、一番よかったことを教えてください。

「まずは、これだけ長い期間サッカーを継続できたこと。そして、指導者や同僚選手に恵まれたこと。もうひとつ付け加えるなら、緊張感の中にある楽しさの本質を十分に味わえたことですね。ケガが多くて、本当につらい日々もありましたけど、もがいていると、どこからか手を差し伸べてくれる人がいたりして、何度となくチャンスをいただいてきました。そこで、多くのことを学ぶことができました。今後は、現役時代に経験したことや学んだことを、自分の言葉で伝えていきたいですね。そういう仕事に就くことで、自分のサッカー人生をさらに充実したものにしたいと思います」

(おわり)

望月文夫●取材・構成 text by Mochizuki Fumio