紅白“グダグダ演出”に批判続く…演出ナシでは持たない根本問題

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 昨年の紅白歌合戦が物議を醸しています。ほとんどは演出面について。『シン・ゴジラ』からピコ太郎と、昨年の流行りものを詰め込んだ出し物はどれも消化不良で、目玉だったタモリとマツコ・デラックスの小芝居も不発に終わったのです。

 長時間に及んだ“グダグダ”に、劇作家の鴻上尚史氏はツイッターで「人間の生理を無視しているとしか思えない」と呆れ気味につぶやき、伊集院光も自身のラジオ番組で、NHKの真面目さゆえに「スベってた」と断じました。

◆演出でごまかさないと、あの音楽では間が持たない

 となると、“原点に立ち返るべきだ”とか“そもそも演出なんて要らないだろう”といった声があがるわけですが、そう簡単な問題だとも思えません。

 そもそも今回の出場歌手を見たときに、音楽だけで勝負できる人たちがどれだけいたでしょうか? 全くの演出や出し物なしで4時間半もの鑑賞に耐え得るラインナップだったのでしょうか?

 もちろん五木ひろしや石川さゆり、坂本冬美などのベテラン歌手は例外です。今回で言えば、THE YELLOW MONKEY、Kinki Kids、そして島津亜矢あたりは立派なショーマンシップを見せてくれたと思います。ファン以外の人にも印象を残すパフォーマンスだったでしょう。

 その一方で、若手のバンドや歌手には不安しか覚えませんでした。“一体何が好きで音楽をやっているのだろう?”と不可解な人たちばかりで、バックグラウンドが全く見えなかったからなのですね。確かに演奏やサウンドはそれなりなのだけれども、なぜやるのかという根拠を失っているような……。

◆ゆずの演奏に感じた寒々しさ

 たとえば「見上げてごらん夜の星を」をカバーした「ゆず」。原曲にはないオリジナルパートが加えられていたのですが、あれこれ言うのもアホらしいほどに完全な蛇足だったのです。

 ポップスやソングライティングの歴史にほんの少しでも敬意を抱いていたら、絶対にできないような真似が平気でまかり通っている。過去への配慮を欠いたJポップの寒々しさが、「ゆず」の演奏に集約されていると感じたのです。

 アメリカのソングライター、ドン・マクリーン(マドンナのカバーでも大ヒットした「American Pie」の作者)がこんなことを言っていました。

「もしいい曲を書きたいなら、偉大な作曲家たちの作品を頭にストックしておかなければダメだ。コール・ポーターとかガーシュウィンとかね。加えてアーヴィング・バーリンとかビートルズ、1950年代の名曲に立ち返る必要があるね」
(Paul Zollo 『More SONGWRITERS on SONGWRITING』 Da Capo Press p.598 筆者訳)

 現代の日本で日常的に中村八大や服部良一を意識するのは難しいかもしれません。それでも指摘しなければならないのは、真面目で一生懸命だからといって何をしてもいいわけではないということです。

「見上げてごらん夜の星を」を聴いて何か付け足そうと考える人たちの音楽に、一体何を期待したらいいのでしょう。

◆miwa、セカオワ…が心配になってくる

「ゆず」の他も似たり寄ったりでした。曲の骨格はフォークやニューミュージックの域を出ないのに、なぜかベーシストがやたらめったら跳ね回っていたRADWIMPS。miwaやSEKAI NO OWARI、「いきものがかり」には、一生、中高生相手に商売し続けるつもりかと心配になります。

 みんな表面的には“高級な”音がしているのです。お金がかかっているし、曲の中身はさておきアレンジも凝っている。しかし、その音楽が歴史の大きな流れの中に存在している構図が浮かばないのですね。

 先人と照らし合わせて、自分たちに何ができて、何ができないのか必死に吟味する様子。そうした検討の形跡がほとんどうかがえない音で、それが「根拠を失っている」ということなのです。結果出来上がった音楽は、“仏作って魂入れず”そのものでしかない。

◆虚しさの質がいつもと違う感じ…

 こうした諸々を踏まえると、グダグダだろうがとりあえず演出でごまかすしかなかった苦悩が思い浮かびます。そんな音楽ばかりではとても間が持たないからです。

“とりあえず観ておかないとなぁ”と思いつつチラ見で済ませた今回の紅白でしたが、虚しさの質がいつもとは違うと感じました。放送終了後、繰り返し観たのは映画『はじまりのうた』の屋上での演奏シーンでした。

<TEXT/音楽批評・石黒隆之>