子どもへの虐待やネグレクト(育児放棄)による悲しい事件を耳にすることが多い昨今。ニュースとして明るみにはでないものの、水面下ではたくさんの子どもたちが親からの虐待に苦しみ、大人になった後もそのトラウマ(心的外傷)と闘っています。

コスモポリタン アメリカ版では、母親から虐待を受けて育ったコリー・リトルさんの手記を紹介。家を出て自立し、愛する人と出会った彼女。でも結婚式に自分を苦しめた母親を招待するかどうかで悩むことに。果たして、彼女がくだした決断とは…?

私は人より早く成長したかったわけではないし、出来ることなら"子どもらしい子ども"でいたかった。

「私は難病を抱えた母に虐待されて育ちました。生き抜くための術を自然に身につけた私に、周りの大人たちは『あなたは本当に大人びているわ』『すごく賢いのね』と言ってくれたけど、慰めにもなりませんでした。私は人より早く成長したかったわけではないし、出来ることなら"子どもらしい子ども"でいたかったから。

10代のころからスティーヴンス・ジョンソン症候群(皮膚粘膜眼症候群)を患っていた母は、ほとんど目が見えないものの光には過敏に反応してしまうため、室内で光を遮断した状態で暮らしていました。加えて退行性椎間板疾患のため、脊髄の手術を何度も受けなくてはなりませんでした。彼女の毎日は薬を飲むこととテレビを見ることだけ。テレビだけが外の世界と彼女を繋ぐものでした。

子どもだった私は、そんな母からの虐待とネグレクトに耐え、家でたばこを吸い続けるだけの母の世話に明け暮れていました。洗濯物や洗い物は山積み、シーツは何カ月も取り換えず、家の中はカビだらけ。シングルマザーだった母。私の父親からの援助はなく、私たちは貧しくて、家も汚くみずぼらしかった。

母からの虐待は本当にひどいものでした。『汚くて愚かなガキ!』『毒蛇のように邪悪な子だね!』――そんな言葉を日々浴びせられました。日々をやり過ごすため、忙しいふりをしたり、友だちの家にできるだけ長居したりしていました。友だちの両親に優しくされることで"家族の温かさ"を感じようとしたし、私が置かれている悲惨な状況に誰かが気づいて、私を引き取ってくれないかと思ったりもしました。でも悲しいことに、そんなことは起らなかったけれど…」

ここにいたら、私もウツになってダメになってしまう…。

「成長するとともに、生まれ育った街にいることに虚しさをおぼえるようになりました。母は怒りを爆発させると私の顔に平手打ちを何度も浴びせ、そして泣き崩れます。私は『お母さんごめんなさい、もうしません』と謝らなくてはなりませんでした。母は私のたった1人の家族であり、唯一愛情を示してくれるはずの人なのに。人生ってこんなものなのか、愛なんてものは存在しないのか…。母は話をするたびにケンカ腰になり、私をののしり、泣きわめき、こんな風に母が暴力を振るうのは私のせいだと思わせるように仕向け、謝らせる。この繰り返しでした。ここにいたら、私もウツになってダメになってしまう…。

私が故郷を離れ、何百キロも離れた土地で暮らしはじめたのは20歳のときでした。遠くにいることで母から受けた傷を癒せると思ったし、確かにしばらくの間は効果がありました。この街、サンタ・クルーズですばらしい人々に囲まれて新しい生活を始め、そして夫となる男性とその家族にも出会いました。数年前のクリスマス、(現在私の義父である)彼のお父さんは私をギュッと抱きしめ、目を見てこう言ってくれました。

『君は私たち家族の一員だよ』

ああ、私にも家族ができたんだ。

サンタ・クルーズで暮らすようになって4年たったある日、1本の電話が掛かってきました。それは母からでした。私たちは仕事について、彼氏について、そして彼女の身の回りのことについて話しましたが、ほどなくして母が『愚かな娘!』と昔と同じようにののしる声が、電話線を通じて数百キロ先から聞こえました。ああ、母はまったく変わっていない。絶望的な気持ちと共に、私は決意しました。『母が私をののしることができるのはこれが最後。もう母との縁を切ろう』と。

電話を切ると同時に、私と母の親子関係も終わりました。家を離れて数年たったことで、私の人生は大きく変わりました。私はもう『虐待から脱出したかわいそうな子』ではありません。人として相応しい人生を歩み、そして愛を知ったのです。病気が母をそうさせていたのは分かっているけれど、でも私はもう母の犠牲にはなりたくないし、なりつづけるべきじゃない。

その出来事があった2カ月後に私は婚約し、まさに幸せの絶頂でした。母に虐待され、必要以上に大人びてしまった子どものころの私。でも今、私は愛に満たされている。自分が"24歳の普通の女の子"なんだと初めて実感できたんです。その日の喜びは色あせることなく私の心にありつづけました。心のどこかで『愛情深い母親』を求めつづけていた気持ちから解放されることができたんです。

挙式の準備が進み、ウェディングドレスやフラワーガールの選定など、まるで夢を見ているような日々が続きました。理想どおりの素敵な会場も見つけました。"自分たちの結婚式"というよりは、私たちを取り巻く人々に祝ってもらえることを最優先にしようと決めていました。予算があまりなかったのでパーティは家族と近しい友人だけの小さなものですが、まるでパズルのピースを1つ1つはめ込むように準備を進め、愛に溢れた式になると感じていました。

挙式が2週間後に迫ったある日、母の友人からメールが届きました。母の体調が急激に悪化していること、そして私に『告知をしてほしい』と書かれていました。

震えるような気持ちで彼女に連絡してみると、『あなたのお母さんは末期の肺がん、そして脳腫瘍よ』との答えが返ってきました。母はチェーンスモーカーで、私が懇願しても煙草をやめてくれなかった人だったから、ある意味予想どおりの答えでした。

母と最後に電話したときと同じような、深い悲しみが沸き上がってきました。母と話し、もう1度親子の絆を取り戻し、母を結婚式に招くべきか。それとも彼女が死ぬまで2度と話さないままでいるか。決断を迫られました」

母を結婚式に招かないことを後で後悔しないだろうか? 母は私に生を授けてくれた人なのに。

「楽しく進めていた式の準備は一瞬にして苦痛に変わり、ストレスで耐えきれないほどになりました。この気持ちは"親に虐待された子ども"しか分からないはずです。もしここで母に連絡しないのであれば、私は母以上に残酷な人間ではないだろうか? 常識的な人ならこの状況を見て『お母さんとの関係を修復できるラストチャンスなのでは?』と言うはずです。でも母との健全な関係などありえないことは今までの経験で分かり過ぎるほど分かっていました。それに…私は母と関係を修復したいのだろうか…?

母を結婚式に招かないことを後で後悔しないだろうか? 母は私に生を授けてくれた人なのに。自分の幸せのために、彼女を冷たく拒んでもいいのだろうか? 私は罪悪感で心が一杯になり、自分を責めはじめました。私がもっといい子だったら、母のことを受け入れ、許することができていたら。こんなに強く自責の念に駆られたのは初めてのことでした。

そして結婚式当日。

結婚式はごく親しい人たちだけの、愛に溢れた温かいものとなりました。私が望まないものは1つたりとも存在しない、素晴らしい式だったのです。そしてそこに母の姿はありませんでした。私の人生は、母が突き付けた"現実"が立ちはだかり、辛く、苦しい時期が長く続きました。でも母との関係を断ち切ったことで、私は癒されることができたんです。結婚式を迎えるまでの葛藤の日々は、想像以上に私を"癒し"へと誘ってくれました。結婚して新しい家族を手に入れ、そして母との縁を完全に断ち切り、私はよみがえったような気持ちです。夢に描いていた以上に幸せです。愛に包まれている私は、もう昔の様に傷つく必要なんてないんです」

※この翻訳は、抄訳です。

Translation: 宮田華子

COSMOPOLITAN US