徳川慶喜の大政奉還に隠された 深刻な事情

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ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
衝撃的なタイトル『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』が話題の著者に、「徳川慶喜の大政奉還に隠された深刻な事情」を語ってもらおう。

教養人徳川慶喜と大政奉還

 慶応三(1867)年、土佐藩が将軍徳川慶喜に対して大政奉還の建白書を提出した。
 これも、実は徳川慶喜が土佐藩に出させたものである。
 かたちはあくまで、土佐藩独自の建白書である。

 慶喜はこれを受けて京都二条城に諸藩を召集(約四十藩が参加)、大政奉還について諮問(しもん)した。
 諮問といっても、これは形式手続きに過ぎない。
 慶喜は即、明治天皇に対して上奏文を提出、その翌日、天皇は参内(さんだい)した慶喜に対して「大政奉還勅許」の「沙汰書」を授けられて、これで大政奉還が成立した。

 土佐藩が建白書を提出してから、僅か十二日後のことであった。

 このように表現してしまうと、日本史を揺るがせた大激変が、実にシンプルでスピーディに成就(じょうじゅ)したかにみえるが、これは表面(おもてづら)だけのことで舞台裏は壮絶であった。

 慶喜がこれほどまでにスピーディに事を運んだのは、そうせざるを得なかった深刻な理由があったのだ。

 この慶応三年十月時点では、朝廷内の討幕派公家は少数派であったことを、まず基本環境として理解しておく必要がある。

 三条家という長州派の過激派公家は四年前の文久三(1863)年の「八月十八日の政変」で追放されており、岩倉具視を中心とする少数の討幕派公家はいずれも下級公家である。八十年ぶりの摂政(せっしょう)に就任していた二条家や賀陽宮(かやのみや)家という親徳川派の上級公家が朝廷の主導権を握っていた。

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