米国大統領選の結果は大方の予想を覆し、定評ある米調査専門機関の直前のみならず開票開始直後までの予想に反する結果となった。米国民はもちろんのこと、世界中が「まさか」の事態に強い衝撃を受けた。

 この原因と理由は様々なものがあろうが、最も影響が大きかったのがグローバリゼーションの波をもろに受けた低学歴白人労働者を中心にして、米国の政治・社会における規範(Political Correctness)の偽善性が表面化したことだろう。

 自由と平等(性・人種・信仰・移動)とこれに基づく文化的多様性を標榜してきた米国が、実はこれに対する偽善性をしっかり内包してきたことが明らかになった。そして、米国の指導層と世論を先導すべきマスコミが、その深層心理を読み取れなかったことも大きい。

 これはあたかも東日本大震災における福島第一原子力発電所の安全性確保施策における津波高想定が「まさか」の事態を招いたのと同質である。

 原発の安全対策では実務者から著しく高い予想津波高の提示があったにもかかわらず、費用対効果が合わないとして経営幹部がこれを真剣に考慮せず、想定外の災害を引き起こしてしまった。その結果、未曾有の国家・民族的被害をもたらした。

 今回の米大統領選もこれと似ている。

 米マスコミは、経済格差の拡大で憤懣やる方なかった白人低学歴者などが行動規範のタブーを破ったトランプ候補に内心喝采を送り、また高学歴・高所得層にも「隠れトランプ派」がかなりの割合になると予想されていながら、甘く見過ぎてしまった。

 クリントン陣営も十分に真剣な対応を取らなかったため「まさか」の事態を呼び込んでしまったと言える。

 さて、福島と米大統領選の「まさか」の事態から私たちは何を学ぶべきだろうか。とりわけ安全保障の面で十分な対策が取られているか心配になる。安全保障で「まさか」の事態が発生すれば、それこそ取り返しがつかない。

 完全非武装を規定する憲法の建前上、現実の国際情勢に対しての安全保障政策および防衛施策においての法的正当性(Legal Correctness)の偽善性が安全と防衛を機能不全に陥らせる危険性を、福島と米大統領選に学ぶべきである。

安全保障、防衛上のまさかの事態

 我が国の国民性は極めて善良・公正・信義を重んじて性善説に傾き、いずれの国も謀略を尽くし力で国益を追求することを憚らないのに、今なお国民の多くが、特殊な国際環境下に与えられた「平和を愛する諸国民の公正と信義に期待し我等の安全と生存を図ることを決意する」とする憲法的国際理念を盲信し続けている。

 これでは、第2次世界大戦の最終局面で、限りなく無慈悲に権謀術数を行使してやまず虎視眈眈と我が国に対する侵攻を狙っていたソ連共産党政府に米英への和平斡旋を懇請するような、愚かな方策の轍を踏みかねない。

 我々は我々の理解を超え人道主義や不正を顧みず隣国を侵害する事態のあること忘れず、これらを冷厳に隈なく考察して有形無形の備え講じなければならいのだ。

 第1の「まさか」は暴虐無道、他国民を平然と拉致して人権を蹂躙して憚らず、世界の糾弾を浴びながらも核ミサイ開発に幕進している独裁国家北朝鮮の核ミサイル攻撃事態だ。

 射程1300キロのノドン200発の保有目的は我が国を第一の目標にしていると考えなければならない。この防御には現在の限定されたイージス艦搭載ミサイルとPACミサイルではその飽和攻撃に対応できない。

 したがってTHAADなどの導入だけでなく、積極的にその攻撃を阻止のため発射基地を制圧できる手段(例えば米海軍のトマホークCM)の整備が欠かせないが、真剣に考慮されている気配はない。また日本海沿岸の原発施設攻撃やCBR兵器を使うインフラ攻撃という「まさか」の事態も想定されているようには見えない。

 第2の事態は中国に関わる問題だ。尖閣諸島への実力行使は現実のリスクだと認識されるようになってきたが、南西諸島への直接侵攻も決して架空の事態ではない。

 米国は尖閣事態に安保条約発動を盟約しているものの、米国内では「防衛努力の十分でない日本の無人の岩礁防衛のためになぜ米国青年の血を流さなくてはならないか」との声も少なくない。

 また米国には中国が中距離ミサイルで日本本土を攻撃、尖閣奪取の事態に、日本政府の中国本土のミサイル発射基地攻撃要請を米国は拒否しかえって日本に降伏和平を勧告するという想定までも散見される。

 したがって、日本はいかなる最悪の事態においても自ら対応する覚悟と準備が必要である。

 第3は米国の核の傘すなわち米国の拡大抑止の信頼性だ。

 中国の核攻撃の恫喝に無頓着では政府・防衛当局の責任逃避この上もない。米国があらゆる手段で日本を守ると約束していても、それが現実になった場合、果たして米国が自国の核攻撃のリスクを背負ってまでも日本のため核反撃の道を決断するであろうか。

 トランプ次期大統領は、日本の核武装化を気軽く放言したが、現実の国内外情勢上に照らせばきわめて難しいものがある。それらを踏まえれば核恫喝時に米国の信頼できる核の拡大抑止の確保の保証に確かなものを存在させるべきだろう。

 第4はロシアである。

 ロシアはモスクワ大公国の建国以来力で周辺領土をもぎ取り現在に至っている国だ。必要とし力が可能とすれば国際法や多国の非難をものともせずクリミヤのごとく今日でも他国領土を侵して憚らないものがある。

 ダマンスキー島の領土問題は中国との折半で解決を図ったが、それは武力を用いても奪還するという中国の強い意志の存在とその両国と国際関係への総合的利害関係を判断してのことだ。

 したがって現在進められている安全保障戦略上価値の大きい北方領土問題を含む日露交渉にはもちろん、対露関係の基盤には相対的力関係が基礎になるものであり、対露防衛力の構築維持に留意しまさか事態発生を抑止できる対応の準備を怠ってはならない。

 マキアヴェリは『君主論』で「寛容と忍耐をもってしても人間の敵意は消して溶解されず、報酬や経済的支援を与えても敵対関係を好転できない」と言うが、私たちはこの言葉を噛みしめる必要がある。

我が国の安全保障政策における危うさ

 自衛隊は国防任務を与えられながらも行政組織の一部に置かれている。したがって自衛隊はポジティブリストの拘束された権限でネガティブリストの権限を与えられてる敵と戦はなければならい。これが勝敗にどれだけ大きな影響を与えるかの認識が国民にあるだろうか。

 また、世界有数の近代化された軍隊と認識されている自衛隊を戦力でないと言うほど偽善はない。これは自衛隊の扱いを不当にし自衛官の士気を大きく挫いている。

 そして、法的正当性に基づき定められた専守防衛、武器輸出三原則、防衛費の原則国内総生産(GDP)1%以内ないどがいずれも大きな矛盾をはらんでいることを改めて指摘しておきたい。

・専守防衛の戦理的背反性

 戦いの勝利の第1原則は、敵の虚を突くことである。しかし我が国では憲法上自衛権の発動は、我が国が急迫不正の侵害が生じたことが前提にされている。このため撃たれてから武力の行使を開始する。これが専守防衛の論理である。

 しかし敵に第1撃の先制を許せば、戦闘機、艦艇はすべて基地で一挙に壊滅され、レーダー網は潰され盲目になり、指揮統制システムは機能を失ってしまう。それでどうして防衛行動が可能になるであろうか。

・武器輸出三原則の偽善性

 この原則は、成立変遷に様々の背景があるものの、我が国は必要な武器を輸入して防衛力を整備、国民の生命財産の保護を期している。一方、武器を輸出することは死の商人の行為で、平和国家の理念にもとるとしてこれを厳しく規制している。

 しかし、これはおかしな話である。死の商人からの購入は善で売却は悪という論理になるわけで、そんなちぐはぐな道理があろうか。まさに偽善である。

・防衛費の対GDP比1%枠の弊害

 我が国は憲法の規定する平和国家の一象徴として、防衛費を対GDP比1%の枠に抑え込んできた。しかし政治家たちは、これで我が国が最低必要とする国防力が形成されていると思うのであろうか?

 外形だけを見れば確かに世界有数であろう。だがそれは表面の薄い皮だけであり、考えられる最低限の継戦期間を保証する人的物的縦深性に重大な欠陥を抱えており、当事者は常に薄氷を踏む思いをさせられている。

 現実の世界では、国際戦略競争の域外にある開発途上の小国には1%もないではないが、我が国のような主要国で、しかも世界戦略上の要点に移位置する国が1%ですむはずがない。

・交戦権否認で自衛官の服務はまさに苦役

 憲法9条の武力行使等の禁止、戦力不保持、交戦権否認の下でも自衛権に必須の自衛戦争のための武装が許されるとしているから、当然交戦権においても自衛戦争にかかわる領域は許されると考えられるべきだろう。

 しかし政府は交戦権ではなく自衛権で戦うのだとする。その中身の説明はなく国際的保証も全くない。

 これでは仮に自衛官が捕虜になったら国際的理解に基づく交戦権による陸戦法規の援用を期待できず、政府はどうやってその保護を求めるつもりなのか。

 政府は『国際人道法』が援用されるとするが、それで確かに保証されるのであろうか。かつて政府は自衛官は進んで苦役に服しているのだと言うがごとき答弁をして憚らなかったが、今度は自衛官を見殺しにするつもりなのであろうか。

 自衛官が命を懸けて任務に服するのは、国家がその志を認め、国家が万全の保護を確保すると期待するからである。

 それを棄民のごとく扱われては、将来我が国を防衛に当たろうとする者はいなくなり自衛隊は自ずから消滅するであろう。

・厳格な防衛行動法制下の文民統制システム不全と無責任

 自衛隊の防衛出動は厳格な文民統制下にあり、防衛出動命令がされない限り現地の状況如何にかかわらずたとえ部隊が現実の脅威にさらされても一兵も動かすことはできない。

 昭和51年ソ連最新鋭戦闘機ミグ25が函館空港に不法着陸し、ソ連軍の急襲奪還作戦の重大情報があった中でも、当時の三木武夫政権は政権維持工作に夢中でこれを放置した。

 また防衛官僚も責任を放棄して顧みず、このため第一線部隊は国防任務と文民統制の狭間に悩まされ、現地部隊長は一身の懲罰と命を顧みず事態に対処することを覚悟して部隊をしかるべく指揮した。

 このため陸上幕僚長はこれでは統卒ができないと抗議して辞職したが、政府・防衛省幹部には何の反省もなかった。

 このためもあってか、当時の栗栖弘臣統幕議長は「現行法制下では第一線部隊は非常の場合は超法規行動を取らざる得ないことがある」と法制の不備を警告したのに、防衛長官はかえって文民統制を侵す発言として事実上罷免した。

 それでも政府・防衛庁はこの重大性を軽視し形式的防衛法制を研究しただけで、今も問題はそのままで何も解決されていない。

・安全保障法の架空前提

 平成27年(2015)安全保障法が与野党の激しい論争の上成立した。しかし、国際平和活動(PKO)に自衛隊を出す以上、法制上の建前に終始せず、危険な任務に就かされる自衛官の身を案じて、状況に即して派遣部隊隊員が任務を果たせるよう現実に即した仕組みを整備し、どんな危険な事態にも彼等を去就に迷わせない配慮が必要だ。

 後方活動だから安全だ、戦闘地域と後方地域は区分されるとする論議は現代戦では通用せず、かえって防護力薄弱な後方部隊は狙われやすく危険なのだ。

 武器の整備部品補給はよいが弾薬補給は戦闘する連合国軍と一体になるからいけないとか、一般的任務の同盟国の戦闘機への給油は許されるが、作戦行動に出撃時はいけないとかは全くナンセンスな議論以外何ものでもない。

 自衛隊・自衛官にとっては、個別的自衛権の発動による国内で武力を行使する防衛行動と、憲法上許される一部の集団的自衛権に基づき外国でのPKOに派遣された場合の任務達成のためまたは自衛のための武器の使用権限が著しく異なるのは理解できないだろう。

 また、PKOに絡む安全保障法制定に反対の立場の側は、「自衛隊が1発の弾も発射せず、1人も殺すことなく1人も死ななかったのは、憲法を守ってきたからだ」と感傷的に主張する。

 しかし、国際平和に積極的に貢献すると言いながら世界の主要国である日本が発展途上国を含む多数の国が参加するのに危険だから参加しないとしたり、どの国も撤退しないのに日本だけが危なくなったから撤収するとすることは果たして国益に叶うのか。

 自衛隊は命ぜられるいかなる任務も果たすべく平素厳しい訓練を重ね、遺憾ながら毎年平均して30人(2016の殉職者合祀は31人)もの犠牲者を出している。反対論はこれをどう考えるのであろうか。

 任務は達成しなくてもいいから殉職者が出ないように厳しい訓練をやめよと言うのか、それとも実際のオペレーションでは犠牲者を出してはいけないが、訓練での犠牲に関しては知ったことではないとでも言うのか。

まとめ

 米国では政治的正当性の偽善性を突かれ、大方の予想が覆えされ、まもなく予測不安定なトランプ政権が誕生する。しかしこれは米国民には不安でも政権の1つの交代にすぎない。

 しかし我が国では国家の基本の安全保障システムが、現実無視の架空の上に法的正当性の観点を主に組立てられており、万一安全保障上の危機が生起すればその法的正当性の欺瞞性のために収拾が取れず、国家の生存を危機に陥れる大きなリスクをはらんでいる。

 「まさか」の事態に対する構えも「知らぬが仏」の有様だ。

 日本人は本来相手に平和的に接し好意を示せば、誰でも相手は平和的好意を以って応じてくれると信じ切っている。世界情勢が激しく変化してしまった今なお憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しよう」と信じてやまない。

 米国の覇権のもと国連中心で世界秩序が保たれた時代はすで去り、今や力と野望のある国が世界を分割支配しようとする時なのだ。

 日本の安全のため、また世界の安定のためにも今や日本には戦後民主主義国家の中軸米国を助けてきたかつての英国のような役割が求められている。

 このため日本国民は情勢に応じて世界観を変え、現実施策を怠ってはならない。

筆者:横地 光明